南スラウェシの記憶 −『ナマコの眼』鶴見良行 5/6 

 ナマコという具体的なモノについて書かれている内容だけあって、この本にはたくさんの地名や人名が出てくる。その為か、読んでいて旅しているような、人のおはなしを聞いているような感覚をあじわうこともできた。
 特に著者が何度も言及するスラウェシ島紀州や沖縄は、自分自身がかつて旅した土地であり、次のような描写は、すこし懐かしい気持ちで読むことができた。

 南スラウェシは、景色の豊かな土地だ。景観の豊かさは、暮しと産業の多様さをしめしている。水利灌漑の技術を念頭におくと、稲作水田だけでも四、五通りはあるし、養魚池、塩田、浜造船、常畑、焼畑、様々な定置漁業の風景が見られる。船頭ボバッソォの船隊は、ボネのサルタンが仕立てたものだったが、そのボネから北へかけては、サゴヤシ栽培の土地である。そして山村の棚田の畔には、クローブ、バナナ、コーヒーが植えられている。(244)

 二〇〇九年にこの島を旅した時、長距離バスから見た風景の印象を、私は次のように日記に綴っている。

 二〇〇三年の旅では、新たに「辺境」という印象が立ち現れてきた。それは、ラオスミャンマーとの国境地帯で感じた印象である。「辺境」という言葉は、単に国境地帯という意味では使っていない。外部の世界からへだてられたような小さな田舎町で、人々のあたりまえのいとなみを目にしたとき、自分は小さな感動とともに、「辺境」に来た事を実感したのだった。
 今日、トラジャへと至る車窓の風景を見て、その時と同じような印象を受けた。マカッサルという貿易港と、トラジャという観光地を抱える南スラウェシであるが、その間にある土地は、やはり世界の動きからは隔絶された、辺境のような土地であろう。そして、その土地にある家々の前で、バトミントンに興じる少年たちや、髪を結う少女たち、おしゃべりで時間をつぶす老人たち、あるいは入り江にたたずむ小舟を見ると、ありきたりな彼らの営みやが、小さな驚きと感動をともなって、見えてくるのだ。
 そのような時間を過ごすことで、旅に対し、あるいは世界に対し、一つの小さな希望を抱くこともできる。

 旅でもいいし、その時間やお金がなければ本を通してでもいい。そこで人々の生活に触れることは、大げさかもしれないが、私たちに勇気を与えてくれる。『ナマコの眼』を読む時間のなかで、私はその感覚を呼びさますことができた。