『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 6/7

第5章 役柄から外れたコミュニケーション

(その場にいない者を)内緒で貶めるというのは、内緒で称賛するよりずっとよくある行いだと思われる。なぜならそうした貶めはたぶん、その場にいない者を犠牲にしてメンバー相互間の敬意と好意を示すことを通じて、そしておそらく顔を合わせてのやりとりの中でオーディエンスに与える妥協的だったり調停的だったりする取り扱いがメンバーにもたらすだろう自尊感情の低下を埋め合わせることを通じて、チームの連帯の維持に役立つからである。(269)
(人が面と向かっては比較的よく扱われ、裏では悪く扱われる事実に関して)私たちはその理由の説明を人間の本性に求めてはいけない。すでに指摘したとおり、オーディエンスを舞台裏で貶めるという行いは、チームの士気を維持するのに役立つ。またオーディエンスが目の前にいるときの彼らへの思いやりのある取り扱いは、そのオーディエンスのために、あるいは正確にいえばただそのオーディエンスのためだけに必要なのではない。そうすることによって、平穏で秩序だった相互行為が継続するという保証が得られるだろうから必要なのである。オーディエンスのあるメンバーに対するパフォーマーの「実際の」感情は(それが好意的なものであれ悪感情であれ)、パフォーマーがオーディエンスのそのメンバーを、当人が同席するところでどのように取り扱うか、また、その人がいないところでどのように取り扱うという問いとはほとんど関係がないように思われる。(275)
「陳腐なまでに感傷的な」曲を演奏しなければならなくなったジャズミュージシャンたちが、ときに必要以上に感傷をこめて演奏することがある。このちょっとした誇張は、演奏者たちが聴衆への軽蔑と、より高次の演奏への自分たちの忠誠心を伝えあう手段として機能する。パフォーマンスに携わっている二人のチーム仲間の一方がもう一方をからかおうとするときに、こうした事例といくらか似通った形式の共謀が発生する。……パフォーマーは、オーディエンスをあざけったりチーム仲間をからかったりすることを通じて、自分が当面している公式のやりとりに束縛されていないだけでなく、そのやりとりを十全に自分の統制下に置いており、それをおもちゃにすることさえできるということを示せるのである。(296)