『日常生活における自己呈示』 アーヴィング・ゴフマン 3/7

第2章 チーム

一つのチームが、現実にその場にいるわけではないオーディエンスにショーを見せるために、自分たちだけでパフォーマンスを演じるという可能性にも思い至らざるをえない。たとえば、アメリカの精神病院には、亡くなって身元引受人のいない患者のために、病院の構内で比較的手の込んだ葬儀を行うことがある。それが、時代遅れのの施設の状態と世間一般の無関心によって最低限の社会的基準が脅かされかねない環境のなかで、基準を維持する保証に役立っていることに疑いの余地はない。(134)
インフォーマルなクリーク(小規模な集まり)のメンバーもまた、一つのチームを構成する可能性がある。なぜならかれらは、メンバーではないある種の人たちの目からそのメンバーシップが排他的であることを巧みに隠しつつ、他の人たちを相手に自分たちについての気取った宣伝をするという課題のために協力しなければならないだろうからだ。……小さなクリークはしばしば、一緒にショーを演じる人たちの利益を増進させるためにではなく、意に反して彼らと同じカテゴリーの人間だとみなされないよう防御するために形成されるのだと思われる。したがって、クリークはしばしば、個人をほかの地位のランクの人たちからではなく、自分と同じ地位のランクの人たちから防御する機能を果たすことになる。(138)
なぜ自然な社会的場面での総合行為が通常、それより多くのチームではなく二チームの間でのやりとりという形式をとるのか、もしくはその形式に帰着することになるのか、その一般的な理由を私は知らないが、しかし経験的に言って多くの場合そうなるいえよう。……陸軍の中尉は、ある状況のもとではすべての士官と同じ側に立ち、すべての兵と対峙する立場にあると感じる。しかし、別の状況下では、下位の士官たちと協力して、かれらとともにその場にいる上位の士官のためにショーを演じる。(149)
チームが作り出している印象を維持しようとするなら、個人をパフォーマーとオーディエンスの両方のチームに参与させないために、何らかの保証が必要だという自明のことについても述べておかなければならない。たとえば、小さな婦人用の既製服店の店主が……客に良い印象を与えようと実際にありもしないニューヨークの仕入部について語り、じつは売り子に過ぎない若い女性店員のことを調整主任と呼んでいたとすれば、その店主は、土曜日にパートで働く若い女性が臨時にもう一人必要になっても、かつて客であった人、そして辞めたあとまた客になりそうな人を近隣から雇い入れたりしないよに気をつけなければならない。(151)
パフォーマンスを効果的にするために、それを可能にする協力の範囲と性質は隠され秘密にされるだろう。つまりチームは、一種の秘密結社のような性質をそなえている。……
私たちはみんなさまざまなチームに参加しているから、だれもが共犯者としての甘い罪の意識のようなものを心の奥に抱かざるをえない。そして、あらゆるチームがある種の事実を隠したり些細なことに見せかけたりして状況の定義を安定的に維持する作業に携わっているのだから、パフォーマーはひそかにその共犯者としてのキャリアを生きていると考えることができる。(168)