小さなモノから歴史を掘りおこす −『ナマコの眼』鶴見良行 4/6 

 ナマコのような、一見たわいもないものは、せいぜい小さな貿易業者が、細々と商っていたものと思われがちである。だが、その流れを丹念に追って行けば、今まで見えていなかった、歴史や地理の事実を掘り起こすこともできる。
 著者は、江戸時代の輸出品としての「ホシナマコ」に注目する。その動きをみれば、小さな貿易航路と考えられていた海峡の重要性も明らかになる。ひいては鎖国時代、ごく限られたものとされてきた世界市場とのつながりも、それなりの規模を持っていたという事実まで明らかになってくるのだ。

 文明史の流れでいうと、マラッカ海峡は大きな街道であり、マカッサル海峡は中国と“南洋”をつなぐ小さな航路に過ぎない。
 その小さな海道が、ナマコからすると、実は大きな海道だった。ナマコの眼で見ると、マラッカとマカッサルの評価は逆転する。今日、私たち日本国民は、マラッカ海峡を石油や鉄鉱石を運ぶルートとして考えている。しかしナマコを運ぶ航路もあったのである。
 ……江戸時代後期の海外貿易を支えたのはホシナマコだった。石油や鉄だけで見るのではないような視点がありうる。(322)

 一八世紀も末になると、消費文化はますます進行した。寛政の改革(一七八九)を断行した松平定信は、国産奨励策として、繻子、緞子を織らせたけれども、原料はやはり輸入白糸であって、織元は舶来指向にアピールするために、織止に「異国の蚕、本朝の機」と織り出したという。
 まさに鎖国の時代に、自給自足と現物支給の経済のタテマエは崩壊し、長崎の出島、唐人屋敷を通じて、日本人の暮し、とくに都市における町人階級の暮しが、「異国」とつながるようになっていた。異国とは、今日風にいえば、世界市場経済ということだろう。(379)

 モノから世界を丹念に見ていけば、歴史学の定説を掘り崩すこともできる。たとえば、帝国による植民地支配により、世界経済のネットワークができたという説も、単純に適用できるものではない。ナマコのような小さなものは植民地主義以前から世界商品であったし、植民地後もそこに組み込まれることはなかったのだ。

 歴史学の定説でいうと、第三世界は、植民地主義のシステムで初めて世界市場に組み込まれたことになっている。しかし、ナマコは西洋到来以前から、市場価格に左右される世界商品だった。しかも植民地主義が完成された一九世紀になっても、白人に支配されず、自前の世界市場商品として悠々と生きていた。
 ナマコは、植民地主義の時代、植民地主義に支配されない現地セクターだった。植民地主義経済には穴があった。クローフォードの不安もそこにあったのだと思う。(284)

 このような思想は、現在も存在する大国主義に対抗するものになりえる。そして、人々の生活に根ざしているだけに、その力は強い。