『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 6/6

近親愛について

 ちなみに、この小説を一部で有名にした「近親愛」は、たとえば次のように表現されている。ここからもわかる通り、二人の行為は、読者の様々な想像力に開かれているものである。

だがすべての感情と同様、愛においても、行為による実現から遠く離れれば離れるほど、その灼熱の炎は言葉の中でより大きく燃え広がるのである。そして最初に起こった、心を激しく揺さぶるあの捉えどころのない体験のあとで、兄妹がひたすら会話に身を任せ、ときおり魔法にかけられたような気分に浸っていたのは、まず第一にどのように行為していいかわからないからだった。その原因でもある自分自身への感情の恐れと、殻を破ってその感情を見極めたいという好奇心がせめぎあっていたため、内容的には深みに達しているのに、ときとしてふたりの会話は表層にとどまらざるをえなかった。(643)

『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 5/6

哲学的省察、詩的表現

 また、次のウィトゲンシュタイン的ともいえる哲学的省察は、「形而上学小説」といわれるこの作品の面目躍如といったところ。

彼の幸福は人を殺さないことにあるかもしれないし、人を殺すことにあるかもしれないが、彼は徴税人のように、自分に課せられた要請を淡々と果たして回る者には決してなれないだろう。彼がこの瞬間に感じていたのは命令ではなく、自分がある領域に入り込んでいたという感覚だった。その領域においてはすべてがすでに決定されていて、あらゆるものが母乳のように意識を和らげるのがわかった。だがそれを告げたのはもはや思考ではなく、日常の断片的な感情でもなかった。それは<全的把握>であったが、それでいてまた、さながら風が遠くから知らせを運んでくるかのようだった。その知らせは真でも偽でもなく、理性に一致しても反してもいないように彼には思われた。あたかもひそやかな至福の逸脱が胸のなかに舞い落ちたかのように、それは彼を捉えたのである。(111)

 次の記述も、誰かは判らないが20世紀の哲学者のことを想起させる。

彼は腕で頭を支えて横になっていたが、それはさながらメディチ家礼拝堂の棺を飾る彫像のようだった。そのことが突然彼の頭に浮かんだ。その姿勢をとっていると実際に、雄渾さが、そして彫像の静けさが持つ独特な浮遊感が彼のからだじゅうを駆けめぐり、いつもより力がみなぎってくるような気がした。いま遠く離れたところから、これまで自分とは何の関係もないと思っていたこの芸術作品を理解しているのだと、彼は初めて悟った。(128)

 次の場面も、哲学的省察のひとつ。ムジールは私たち=特性のない人間たちがなんとなく抱く感覚を、分析し、言葉にしてくれる。

それでも、駅に迎えに来ていた老僕に妹の夫はもう来ているのかと訪ね、ハーガウアー教授は葬儀の日に来られますという答えを聞くと、彼は嬉しくなった。葬儀まではせいぜいあと二、三日しかなかったとはいえ、彼にはこのひとときが、誰も立ち入れない無限の時間のように思われた。ぼくはこれから妹の傍らで、世界で最も仲睦まじいふたいりのように過ごすのだ——どうしてそんな風に思ったのか、考えたところで答えは出なかっただろう。おそらく<未知の妹>という観念が、どこにも行き場のない幾多の感情を受け入れる、あの広漠とした抽象概念のひとつだったからだろう。(210)

 さらには、詩的な気づきともいえる見事な表現も、見いだすことができるだろう。

(事物の正しい名を所有することができないとき)むしろそのとき彼は、手でつかめそうなくらいくっきりとした若葉の色を言葉で言い表すこともできず、何の遠慮もなく自分はここだとひたすら訴えかけてくる諸々の花の形のひとつを描出することもできない無力さに、まず身をゆだねることにした。そういう状態においては言葉は切れ味が鈍るし、果実を確かに口にしたと思ったも、それはまだ枝についたままなのだ。おそらくそれが、白昼の神秘主義の第一の秘密なのであろう。ウルリッヒはなんとかそれを妹に説明しようとしたが、それは、この状態がある日幻覚のように忽然と消えてしまうのをひそかに恐れてのことだった。(602)

『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 4/6

オーストリア社会へのまなざし

 『特性のない男』は、当時のオーストリア社会のことが活写されていると言われる。この抄訳版ではそのような場面は少ないものの、以下のディオティーマのサロンの描写は当時の社会をやや戯画的に写し取ったものと思われる。
 ディオティーマの口を借り、作者の文化論・文明論が披露される。

そもそもディオティーマのサロンのように、さまざまな人々を無理やり寄せ集めた会合はすべて、何も気にせず適当に人を集めたのでないかぎりは、人間の調和があたかも実現したかのように見せたいという欲求に基づいているものだ。人間の多種多様な活動を包括すると称するそうした調和はいまだ実現したことがない。そうした幻をディオティーマは文化と呼んだ。それもたいてい特に言葉を足して、古きよきオーストリア文化と。ただの名誉欲がサロン全体を統べる精神にまで拡大して以来、彼女はこの言葉をますます頻繁に口にするようになっていた。(75)

だがディオティーマのように教養と密接に関わっていたら、いかんともしがたいのは教養の深さではなく幅の広さのほうだとわかった、それどころか、たとえば古代ギリシャの高貴な素朴や預言者の書の意味のように、人の琴線に触れる問題でさえ、その道の専門家と話すとたちどころに分解され、収拾のつかないほど多様な疑問と解釈可能性の山が残された。……だがそのような状況に置かれて、ディオティーマは自分が、あのよく知られた現代人の苦悩を抱えているのを発見した。それは文明と呼ばれていた。それは石鹸と無線、数学の公式や化学式の高圧的な記号、国民経済学、実験科学が跋扈する不本意な状態であり、そこでは素朴にして高貴な饗宴など実現するはずもなかった。……時が経つにつれますます、それもまた彼女には、文化ではなく文明の時代を顕著に示すものだと思われてきた。(77)

『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 3/6

作者一流の皮肉な芸風

 この小説の、特に第1巻に通底する皮肉な調子は、たとえばウルリッヒが「特性」を獲得するための、次のような描写に表れる。

さまざまな可能性、構想、感情に満ち溢れた人間には、狂人に拘束服を着せるように、まずはありとあらゆる偏見や伝統、困難や制約によってたがを嵌めなければならない。そうして初めて彼が作り出すものは価値を得て、成長しつつ存続できるのかもしれない。……というわけで、心を決めて故郷に帰ってきた特性のない男は、外部の生活環境に自分を形づくってもらうための二歩目を踏み出した。彼は考えたあげく、自分の家の誂えを出入り業者たちの天才に丸投げしたのである。彼らならきっと伝統や偏見、制約に配慮した仕事をしてくれるだろうと確信してのことだった。(28)

 頻繁に出てくるこのような言い回しには、時代の観察家としての作者の姿ととともに、その「芸風」ともいえるものを感じさせられる。

高尚だとされるものにかんすることではつねに、人間はみずからが作り出した機械よりもはるかに古めかしい振舞いをする(41)

それどころか目覚まし成功をもたらした彼ら(偉大な精神とボクシングの全国チャンピオン)の美点や能力は、まず障害物レースの名馬とも変わらないだろう。茂みを飛び越えるときどれほど多くの重要な特性が動員されているか、過小評価してはならない。だが加えて、馬とボクシングのチャンピオンは、業績とその意義が異論の余地なく客観的に測定され、その分野で最高のものが実際に最高のものと見なされている点で、偉大な精神よりも優れている。こうしてスポーツと側物主義はその功績にふさわしく、人間の偉大さや天才という時代遅れの概念を押しのけて、時代の最先端に躍り出たのだった。(54)

『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 2/6

 20年以上前に高橋義孝訳で、1巻のみ読んだこの小説。内容もほとんど覚えていないが、なぜか心に引っかかるものがあり、抄訳の形でもよいから、いずれ続きを読みたいと思っていた。
 そのため、昨年この本が出版された際は、すぐに購入し読み始めたのだが、予想していた通り、すらすらと読み進められるような内容ではない。
 この小説とよく比較される『失われた時を求めて』に、ルノワールやモネのなつかしさを感じるとすれば、『特性のない男』には、ドイツのキルヒナーのようなシニカルさ、都会的な暗さがあると思う。また、登場人物の会話も、小劇場の演劇空間の語られるセリフのような印象がある。そのため、翻訳が読みやすいからと言って、万人受けする作品では決してない。

小説に通底する雰囲気

 この小説の持つ雰囲気を象徴するような、以下の描写がある。

「<家を構える>ことは、背後には何もない表向きの顔を作ることだ。社会的地位や個人的状況は以前ほど緊密に家と結びついていないし、変わることなく続いてきたものを世間に誇示することが心からの楽しみだという人ももはやいない。以前はそうやって、部屋の数、召使いの数、客人の数で自分が何者であるかを見せつけていたのだ。今日ではほとんど誰もが、形のない生こそ、生を満たす多種多様な意志と可能性にふさわしい唯一の生のあり方だと感じている。若者たちは大道具のない舞台のようなむき出しの簡素さを愛するか、あるいは旅行用衣装トランク、ボブスレーやテニスの選手権、そして車が列なす大通りにある豪華なホテルを——ゴルフ場併設で、部屋にはスイッチをひねると水のように音楽が流れ出る装置があるようなホテルを——夢見ている」。見知らぬ女性とのお喋りに興じるように、彼は話した。実際話すうちに、彼の話は表面的になっていった。(442)

 真剣に物事を考える、そのあと、たいして意味はないという譲歩がつく。小説の中では、始終この調子が繰り返されている。

『特性のない男 ウルリッヒとアガーテ』 ローベルト・ムージル 1/6

主な登場人物
ウルリッヒ 主人公

ディオティーマ ウルリッヒのいとこ
トゥツィ局長 ディオティーマの夫
ラインスドルフ伯 ディオティーマの「胸の友」
アルンハイム ディオティーマの恋人。文筆家

ボナデーア ウルリッヒの愛人。ディオティーマに憧れと嫉妬を覚える
裁判官 ボナデーアの夫

少佐夫人 ウルリッヒの過去の恋人
ヴァルター ウルリッヒの幼なじみ
クラリッセ ヴァルターの妻
ラヘル 女中。ウルリッヒに恋心を抱く
フランツ 老僕

アガーテ ウルリッヒの妹
ハーガウアー アガーテの夫。軽い嫌悪を催すような男
リンドナー 教師。アガーテの前に現れる

ストラースティル博士 天文学者
モースブルッガー 犯罪者

十二月に鑑賞した作品

12/2 『ひめゆりの塔』 今井正
12/4 『ウンタマギルー』 高嶺剛
12/10 『神々の深き欲望』 今村昌平
12/16 『ナビィの恋』 中江裕司
12/18 『ノートルダムのせむし男』 ジャン・ドラノワ
12/24 『オズの魔法使』 ヴィクター・フレミング