『斜線の旅』 管啓次郎

2011/5/28読了

ところが、たとえばオーストラリアを知りエミリーの絵画を知ることに、どんな意味があるのか、何の役に立つのかと疑問を抱く人もいる。「美術って何か役に立つんですかあ」と何の屈託もなく口走る学生たちには、いまも毎年直面する。何度でも答えよう。生きるための役に立つよ。覚醒するための役に立つよ。旅が意識を変えるのとまったくおなじように、芸術作品は意識を変える。良いほうにも、悪いほうにも変えうる。つまりそれだけ、強い体験だということ。変わった意識は、それまでは予測もつかなかった、新しい方向をめざすようになる。いわゆる現実(日常的・物質的・情動的・経済的現実)の中にあって、旅と芸術は不活発になった心と体に衝撃を与える。それでまた、生きることが進む。進むのは誰にとっても避けがたい人生の道であり、それ道でより遠くを見てやろう、より高い、あるいは深いところを見てやろうと考えるのは、まずまず自然な欲求ではなかろうか。
もちろん旅は挫折する。芸術において、作り手と受け手のあいだに絶対的な差が存在するように、旅においても、どこまでも無限の道をゆく旅人と大多数のわれわれ(カジュアルな旅行者)とのあいだには埋めようのないギャップがある。仕方がない、肝心なのは、自分が自分の意識をどうするかということだけ。ぼく自身の意識という子犬を少しだけ解放してやるには、そいつに原野の夢を与えてやらなくてはならない。必要な原野の夢には、現実の旅や絵画や映像や文学や音楽といった、別々の道を経て到達することができる。一つに挫折したら、また別の道を探ればいい。かかる時間も難易度もいろいろ。旅はけっして競技ではなく、それは自分自身以外の誰の役にも立たない。それが強みだ。義務としての旅が義務であるのは自分自身に対してのみ。そして権利としての旅はどんな相手に対しても主張するべきだし、その権利の行使がたった一枚の絵を一瞥することだって、それがどんな広大な窓になるか、わかったもんじゃない。
(204-205)

どこに旅行してもそうだが、ただ「現地」に行けば現地のことがよく見える=わかるわけではない。見ているのは自分の周囲だけだし、数日の滞在は点から点へのさまよいに終わる。特に、それぞれの土地を空間的(地理的)・時間的(歴史的)ひろがりの中で捉えるのは誰にも自力ではできないことなので、必ず何かを読まなくてはならない。言葉の裏打ちがないかぎり、土地や人々のことなど、わかるはずがない。路傍で墓石を見つけても、その碑銘を読まないかぎり、それがいつの時代に生きた誰の墓なのかは、けっしてわからない。書物とは一冊一冊が墓石の集積であり、一冊一冊がそれぞれに死者の群をひきつれ、死者はひとりひとりが、その背後に個別の風景と年譜を背負っている。そうした無数の名前と風景と年譜の集積が「時代」をかたち作り、またわれわれが生きるこののっぺりと平面的な世界に「歴史」を与えるのだが、その多くは、どれほど運がよくても文字以外の痕跡をもたずに地表を去ってゆく。それでも、それだから、機会あるごとに土地をめぐる文字を読まないかぎり、ぼくらはどこのどんな土地についても、ただ通りすがりの無知なよそ者であるしかない。そして驚くべきことに、それはどこかの「よそ」についてだけではなく、自分が生き暮らす「ここ」についてだって、やはりそうなのだ。(252-253)

斜線の旅

斜線の旅