『現象学入門』 竹田青嗣

2009/9/13読了

現象学的還元とは

現象学的「還元」とは「事象それ自身に立ち戻ることだ」とか、「純粋意識」の場面に立つことだ、などという言い方がある。これらの言い方はまったく誤りではないにせよ、極めてあいまいであり、かつ誤解を呼びやすいものだ。「還元」という発想の核心は、まず、<主観/客観>図式を前提とするかぎり認識問題は解けないという点にあり、つぎに、そうである以上、論理上は独我論的な主観の立場から出発するほかない、という見極めにある。そして、それ以上でもそれ以下でもないことをよくわきまえておく必要がある。(45)

「実在物」と「理念物」

では、いまここにあるリンゴのような「実在物」と2×2=4のような「理念物」の根本的な違いはどこにあるのだろうか。それは、リンゴがただ、必ず感性的な現実<知覚>に結びついてのみ存在を確証されるのに対して、2×2=4(またはリンゴという理念でもいい)は、現実<知覚>と必ずしも結びついている必要がないという点だ。つまり「理念物」の場合は、頭の中で考えられた理念対象を基体として、そこで「疑えないもの」として存在が確証されればその条件を満たしているのである。
そういうわけで、物の<知覚>と物の<意味>は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方では捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に「疑えないもの」の確信を与える動きをするのである。だから「知覚直観」と「本質直観」は、独我論的<自我>という主にとって、意のままにならないやっかいな双子の兄弟だと言っていい。(71)

「内在」と「超越」

つまり、具体的に経験される事物は、「それの知覚を超越したもの」だということである。「この机がいまここにある」という経験は、意識に直接与えられている「いまここにある知覚」とぴったり重ならない。いわば事物存在(机)は、原的な体験を超えた“構成された経験”だということだった。
フッサールは、ここで「原的な体験」にあたるものを「内在」と呼び、“構成された事象経験”を「超越」と呼ぶ。この「超越」という言葉は、神とか絶対理念とかイデアなどの「超越」者(物)の概念とは何の関係もない。ひとつの机やリンゴがあるという具体的な経験の確信、これが「超越」と呼ばれるだけのことだ。(90-91)

客観的世界の歴史性

(近代の実証主義の「式」「法則」は)単に生活上の目的のために、事象の客観化された(=どんな人間にも通用する)量や性質を表現するだけでない。それは、これこれの場合はかくなるだろうという予測まで可能にする。このことは、人間の日常の経験は主観的で相対的な世界であり、これに対して計量化され客観化された世界こそ確実で絶対的な世界だ、という感覚を人間に与えるのである。
わたしたちははじめに、経験的感性としての「あいまい」なものと数学や科学の公理のような「確実なもの」との対立をどう考えるか、というところから現象学が出発したことを見た。ここでフッサールは、その対立は、近代科学の成立によって歴史的に作り出されたものだったというかたちで、この問題を解き明かそうとしていることになる。(119)

間主観性」の定義

「客観的世界」ということの現象学的な意味本質はなんだろうか。それは、<私>と<他我>が、<主観>の内容的違いをもちながら、しかしそれぞれが唯一同一の世界(時間・空間)の内に共属しているという間主観性(相互主観性)として理解される。
(中略)<私>と<他人>がともに唯一の世界の中にあるという確信を持ちあっているその関係を、「間主観性」と言うのではけっしてない。そうではなく、「間主観性」とは、“他我が<私>と同じ<主観>として存在し、かつこの「他我」も<私>と同じく唯一同一の世界の存在を確信しているはずだ”という<私>の確信を意味する。間主観性とは、<私>と<他者>の相互関係を言うのではなく、<私>の確信のある構造をさしているのである。(131-132)

ハイデガーとの本質的共通点

とくに注意したいのは、<現存在―事物存在>の非対称的な存在性格という点に着目しない限り、近代的な<主―客>図式は脱却できないということであり、そして、この考えを徹底するためには、<主観>から<客観>を規定することは可能だが、その逆はありえないという原理を貫く必要があるということだ。そしてまさしくここに、一切の事象を<主観>に還元する立場、すなわち「超越論的立場」が要請される理由があったということである。(194)

現象学入門 (NHKブックス)

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