2009/8/13読了
日本人にとって死者の魂とは、舶来の仏教思想のように天高く、あるいは地深くにあるものではなく、身近な山の上から私たちの生活を見下ろしているものであること、そして盆や正月とは、その霊を迎えに行き、そして送り届けるものであることがこの論文での主張となっている。
連日の空襲警報の中でこの論文を書き上げた著者は、その思想の根拠として、幼児言葉に残されているものや、全国各地に流布する言い伝え(盆に道を通る話し声だけが聴こえ、その姿が見えないものがあること)を挙げている。
著者は、仏教思想では簡単に置き換えられなかった、日本古来の信仰の力強さを、次のような言葉で訴えかける。
(資料の少なさによる)かような不利な状態にありながら、なお今日でもこの考え方が伝わっているとすると、これが暗々裡に国民の生活活動の上に働いて、歴史を今あるように作り上げた力は、相応に大きなものと見なければならない。先祖がいつまでもこの国の中に、とどまって去らないものと見るか、またはおいおいに経や念仏の効果が現われて、遠く十万億土のかなたへ往ってしまうかによって、先祖祭の目途と方式は違わずにはいられない。そうしてその相違は確かに現われているのだけれども、なお古くからの習わしが正月にも盆にも、その他幾つとなく無意識に保存せられているのである。(62)
空と海とはただ一続きの広い通路であり、霊はその間を自由に去来したのでもあろうが、それでもなおこの国土を離れ去って、遠く渡って行こうという蓬莱の島を、まだ我々はよそにもってはいなかった。一言葉でいうならば、それはどこまでもこの国を愛していたからであろうと思う。(181)
この論文のほか、同書に収められている『魂の行くえ』『大嘗祭ニ関スル所感』を読んだ。
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