『春と修羅』 宮沢賢治

この本を初めて読んだのが10年前、旅行中のバスのなかだったと思う。ひとつひとつの詩を読みながら、本のなかから、北国の冷氷な風が吹いてくるような、さわやかな印象を受けた。
しかし、当時はその思想性までは、到達することができなかった。
今年の8月に、これも再読となるが見田宗介氏の『宮沢賢治 存在の祭りの中へ』を読み、「第四の次元」「焼身幻想」「ナワールとトナール」というキーワードにより、見田氏の解釈にふれたあと、再び『春と修羅』を読みなおしてみた。
目の前に展開するのは、相変わらずみずみずしく、夜のようなひかりの中にいるような風景。展開される映像は読むたびにあざやかになるが、その思想性まで到達することはできない。結局10年前とおなじ読みをしていたわけである。
宮沢賢治は、その生き方や、「雨ニモマケズ」の禁欲的な解釈により、道徳的な面が強調されすぎているように思う。『春と修羅』を思想の面から読もうとした私も、おなじ罠にはまっていた。
しかし、彼の芸術から、思想を読みとろうとするだけでは、その魅力を半分も感じ取ることができないのではないか。一詩人として、彼がつむいだ言葉や描写に、素直にひたるべきなのではないだろうか。
夢幻的な世界を描いた作家としての、賢治の評価がもっとあってもいい。とくに成人した読者によって、そのような読まれ方をすべきだと思う。

新編 宮沢賢治詩集 (新潮文庫)

新編 宮沢賢治詩集 (新潮文庫)