『オンリー・イエスタデイ』 F.L.アレン

2009/8/9読了
1920年代記として著名な本書であるが、時代の客観的描写よりはむしろ、その時代の道徳律の変遷に力点が注がれている。そして、この著書からは、繁栄の時代とされる1920年代に通奏低音として流れる、幻滅や諦念や刹那的な感情が感じられる。

人生に意味を与え豊かにしていた価値体系は、古い秩序とともに失われ、それに変わる価値は容易に見つかりそうになかった。もし、モラルがその王位からひきずり下ろされたならば、何がこれにとってかわるだろうか、新時代を予言する人びとは、それを自尊心だと言った。・・・・・・立派な思想ではあったが、それはあまりに漠然としていたし、厳しすぎて実際に応用するには無理があった。・・・・・・ロマンティックな愛が王座を退いたら、とってかわるものは何か。セックスだろうか。・・・・・・「恋愛は刹那的な快楽だという考えから出発するならば、恋愛がほんの瞬間的な快楽しか与えないということは驚くにはあたらない」。セックスだけを追求した結果は、空虚で、無益であった。(『生活のしかたと道徳の革命』(166-167))

知識人の大多数は、自分たちが何かに幻滅していることを非常によく承知していた。だが不幸なことに、メンケンのように、人間性に対してほとんど期待を抱かずにやってきた人間は、知識人の中にもほとんどいなかった。動物園を文化的な市民の家庭であるかのように考えなさい、といわれたからといって、そのつもりで動物園を充分に楽しむことはできまい。
知識人たちは、性の自由を、かなり高度に信じこんでいた。そして実際の人間関係を通じて、あるいはその代わりに書物や演劇を通じて、それを手に入れたとき、どちらに対しても失望を感じた。・・・・・・この時代の人たちは、ロマンティックな愛が格下げされたことから起こるなんとなく空虚な感じを味わっていた。(『知識人の反乱』(317-318))

フロリダへの不動産投機や大強気相場は、この空虚な時代が生み出した、一瞬の「夢」なのかもしれない。

大多数の人びとは、大強気相場がまだ続くものとすっかり期待していた。
それは、開拓者の血がまだアメリカ人の血管に流れていたからである。そして山脈のむこうに消えてしまったものはもはやないとしても、幻想を追う習慣はまだ根強く残っていた。一九一九年の暗い失望、ウィルソン的理想主義の崩壊、政治的シニシズムの広がり、宗教的確信のゆるやかな後退、恋愛の仮面暴露などによって、輝かしい希望がうちくだかれても、それがどうだというのだ。大強気相場にはその埋め合わせがあった。・・・・・・かつてのユートピアに対しては懐疑的もしくは無関心になっていたので、汚職や犯罪や戦争やウォール街の支配や無信仰や愛欲などからの解放ではなく、貧困と労働から解放されたアメリカを夢見たのである。新しい科学と新しい繁栄の上に、魔法のような秩序が打ち立てられるのを彼らは見た。(『大強気相場』419-420))

株価の暴落とともに、アメリカのひとつの時代は終焉を迎える。その後に訪れた変化の兆しには、新しい時代の道徳律の具現化が見られる。そして著者は、それを「成熟」と肯定的に受け入れているように見える。

一九三〇年代に入ると、また別の変化の兆しも見えてきた。なかには恐慌のずっと前からはじまっていたものもあったし、その後に進展してきたものもあった。しかし全体として、それらはアメリカ人の国民的気質や生活のしかたのめざましい変化をあらわしている。・・・・・・
・・・・・・いまでは白髪になりかけている“若い世代”のフラッパー娘たちが、あのように必死になって勝ちとった自由は、決して失われてはいなかった。ただこの自由を行使することによって、実際に現れた変化を発見することは困難だった。タブーがくだかれ、モラルがつくりかえられ廃棄されるなど、行動の基準が絶えず変化しているという、あのわくわくした感覚は無くなっていた。そうした罪の償いは、ずっと低い水準で安定してしまった。・・・・・・
一九三〇年代初期の若者は、たぶん、二〇年代の初期・中期の若者と同じくらいに人生を知っていた。だが、彼らは、自分たちがませた鬼っ子であるということを、目立つように意識的に、世間に見せびらかすことを避けた。・・・・・・実際には、熱狂し易い人間の本質からみて、バカ騒ぎの減少を、期待するのは無理なことだと思われる。しかし少なくとも、わざと人目をひくバカ騒ぎは、社会的に有名になる確実な方法でなくなったということが、多くの立証例によってわかる。
・・・・・・かつて悩んでいたインテリの多くは、人生とは自分たちが以前考えていたほどぞっとするような道化芝居だったかどうか、いぶかりはじめていた。“空しさ”という哲学的な、また文学的なテーマは、ほぼ使いつくされていた。・・・・・・
・・・・・・たぶん英雄騒ぎの衰退は、不景気のせいであろう。しかし、おそらくはそれ以上のことがあったのだろう。誇大宣伝の技術は、もはや青春の新鮮さをもたなかった。時代は変わっていたのである。(『余波――一九三〇年、三一年』(455-464))

オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)

オンリー・イエスタデイ―1920年代・アメリカ (ちくま文庫)