前回この本を読んだのが2008年と2009年。約6年ぶりの読書となるが、この間2回転職したり、海外に引っ越したりした。そう考えると、6年という時間は、けっして短くは無いものだと思う。
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再読するにあたり、「内閉」というテーマが常に頭の中にあった。『イエローページ』によれば、それは『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』まで、深く探求されたテーマとなる。
まず、このテーマは『羊をめぐる冒険』で「あらゆる思想が無効化した後に残る」自我をめぐる思想として発見される。その後の作品では「内閉への連帯」が突きつめられるが、やがて「内閉世界で何かが死ぬ」(同時に、村上作品から羊男が消える)。やがて内閉世界はひからび、おぞましいものとなる。
ここまでが、『ねじまき鳥クロニクル』までの流れ。その後の小説では、内閉世界を突き抜けた後のコミットメントが語られる。
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抽象的に描いてきたが、たとえばそれは『海辺のカフカ』の15歳にしてはかなり大人びたカフカ少年のありかた、さらには、より活動的な『1Q84』の二人の主人公のようなものだろうか。実際、この二人の主人公からは、ナイーブな内閉世界は感じられない。
そして、その次の長編の主人公、多崎つくるも、非常に社会化された存在である。だが私は、内閉世界のない『1Q84』の主人公たちや多崎つくるに、ある種の危うさを感じてしまうのだ。それと同時に、小説世界自体もとっつきにくいものとなる。
その世界には、「鼠」「羊男」「キキ」「五反田君」「ユミヨシさん」といった、私にとって居心地の良かった登場人物は出てこない。彼らに対して感じる危うさは、この寂しさと言いかえてもよい。
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『イエローページ』の『ダンス・ダンス・ダンス』論によれば、この小説が書かれた時点で、「すでに回復すべき世界はない」。それは、「鼠」のいた世界、マクシムの宿る場所がすでに存在しなくなっていることを意味する。その後村上が選ぶのは「世界」への回復でなく、「社会」へのコミットメントとなる。
だが、最近の作品から受け取れる、過剰に社会化されることの息苦しさは、どう考えれば良いのだろう。
やはりマクシムの宿る世界が、私たちには必要なのだ。そして、それは「社会」へのコミットメントに、いったん見切りをつけたかたちで、ふたたび見出されるべきものではないだろうか。
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