『イタリア・ルネサンスの文化1』 ブルクハルト 1/5

 人文科学の創始者と言われる著者が、イタリア・ルネサンス文化を論じた二巻構成の本。第一巻では、国家や個人を取り巻く状況から、古代崇拝が生まれるまでの状況が語られる。

「芸術作品としての国家」

 当時の国家を取り巻く状況は、フランス、スペインの脅威や宗教改革などにより、概して不安定なものであった。その中で十五世紀には特に、主権者としての実力が重視される時代となる。

 庶子はしばしば、嫡子がまだ未成年で、危険が切迫しているという理由からも、認容された。嫡出、庶出にはそれ以上おかまいなしに、一種の年長者相続が行なわれた。この国ではどんな場合にも、個人の価値と才能、つまり適否が、他の西洋諸国の法律や習慣よりも幅をきかせていた。何といっても、教皇の息子たちが自分たちの公国を創設した時代だったのである。(しかし十六世紀は嫡子優先の時代となる)(32)

 たえずおびやかされている情況が、これらの君主の中に、大きな個人的能力を発展させたことは明白である。このように作為を要する生活においては、達人ででもなければ首尾よくたちまわることができない。そして君主はおのおの自己を弁明し、主権に値するものたることを立証しなければならない。(78)

 その状況は、君主による強力な専制を生み出すこととなる。取り巻きの連中は、自己保身のため君主にこびへつらうことになるが、それは卑屈な態度というよりは、時代の作法であったともいえよう。

 しかしわれわれはまた、まったく別な共感にも出あう。一切がそれらの家の恩寵のせいだというふうに、いやでも書き、またその恩寵をあてにしている短編小説作家たちは、我々に君主の恋愛沙汰を、一部は当の君主の生存中に、後世の人々には不謹慎の骨頂とも思われ、当時は罪のないお世辞に見えたような仕方で、物語っている。……
 最大の画家たち、たとえばリオナルド・ダ・ヴィンチが、自分の主君の愛人を描いたことは、言うまでもない。(82)

 近代の君主政体に対して形成されたような集団的急進主義は、ルネサンスの君主国家にさがしてもむだであろう。一人一人が、心中ではもちろん、君主の支配にたいして抗議していた。しかし結集した力をもってそれを攻撃するよりは、むしろどうにかこうにか、あるいは有利に、それに順応しようとした。……(支配者の一家を駆逐しても)主人がかえられるだけかもしれないということも、人々はたいてい知りすぎるほどよく知っていた。共和国の星は確実に沈みつつあった。(97)

 このような情況のなかで、国家は近代的な手法とは別の方法で運営された。そのようにして作られた国家を、ブルクハルトは美しくも「芸術作品としての国家」と呼ぶ。

 人が一つの憲法を作り、現在の勢力と方向を計算することによって、それを新たに製造することができるという大きな近代的誤謬は、フィレンツェにおいて、動乱の時代に幾度もくりかえし現われ、マキアヴェリもその誤謬から自由ではなかった。
 そこでいわば国家を作る芸術家が現われて、勢力の人為的な移動と分配、厳選された選挙方法、見せかけの役所などによって、持続的な状態をうちたて、貴賤上下をひとしく満足させ、あるいは瞞着しようともする。そのさい、かれらはきわめて素朴に古代に規範をとり、最後にはまったく公式にも、古代から貴顕党、貴族党などの党派名を借用する。(134)