二〇代の頃、よく渋澤さんのエッセイを読んでは、その文体から醸し出される軽い浮遊感を楽しんでいた。思えば、著者の本を買うのは久しぶりだが、読んでみれば、少しの懐かしさを感じるとともに、時折はっとさせられる一文にも出逢う。
晩年にさまざまな媒体で発表されたものを、気ままに集めたような一冊であり、文章に極端なケレン味もない。わたしも、気に入った文章を、気ままに引用してみよう。
贖罪としてのマゾヒズム
「結局は一つに帰着する二つの矛盾――自分の失敗を認める苦々しさをかみしめながら、ぼくはそうひとりごちた。十一月一日の雨もよいの夜、荒れ果てたおぞましい空き地にピノを連れていく必要があったとすれば、それは自分の生のすべてを、充実したただひとつの生に調和させるのに今もって成功していなかったせいなのだ。ぼくにとって愛は依然として、息子とインテリという二重の条件から抜け出して、名をかくしたまま、どこか離れたところで、あの一体の汚辱のなかでこそなすべき何かなのだ。五十三歳にもなって!」
パゾリーニの肉身を借りた作者の悲痛な告白だが、これは多かれ少なかれ、現代に生きている私たちの胸にもぴんと跳ねかえってくるような性質のものではないだろうか。同性愛であると否とを問わず、すでに愛は匿名のなかでしか実現されないものなのかもしれないからだ。(150)
鉱物愛と滅亡愛
ユートピアを夢みるものは、古来、かならず鉱物愛に取り憑かれた連中であるというのも、考えてみるとおもしろい。優れたSF作品にも、この鉱物愛の幻影がちらちらしているのを、読者は容易に認めるであろう。
誤解しないでいただきたいが、このSF的幻想と鉱物愛とのむすびつきは、進歩思想とは何の関係もないということだ。金属や機械が進歩思想の標識であった時代は、二十世紀前半とともに過ぎ去った。鉱物愛は、今や都市文明における滅亡愛の標識であるといってもよいほどであろう。いや、タオイズムはすでに紀元前のむかしから、鉱物愛と滅亡愛を「悦ばしき知識」として一つに統一しているのである。(227-228)
遊戯性への惑溺
私たちは今日、コンピューターを駆使する文明の段階にきているから、かつてのように自動人形や自動人形製作者を怖れたり気味悪がったりすることはない。そういう感情は、人類の過去の遺物のようなものだと思っている。私もその通りだと思う。それでも、私にとって自動人形が何より興味ぶかいのは、私たちがすでに絶滅したものと信じている、その過去の遺物のような感情を触発するものが、その中にしっぽのように残っているのに気がつくからなのである。(247)
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