戦争の悲しみ/バオ・ニン

2009/1/25読了
読み進めながら、以前訪れたヴェトナムのことを考えていました。私がヴェトナムを訪れたのは1999年と2003年で、それぞれ2週間程度の滞在でした。この作品からは、その時ヴェトナムに対して抱いた「荒々しさ」と「都市の停滞感」という2つの印象を感じ取ることができました。

ヴェトナムの荒々しさ

「荒々しさ」というのは、洗練されていないという意味です。この作品の登場人物は、19世紀の小説のように類型的であり、ひとつひとつのエピソードも、(作者の実体験に即しているとはいえ)典型的なものに見えます。「荒々しさ」は次のような表現にも見られます。

キエンはフォンを忘れようと努めた。忘れろ、忘れろと、自分の心を叱咤激励した。だが、どうしても忘れることができなかった。彼自身によって最悪の選択と知りながら、彼はただ黙って彼女を待ち続けた。諸行無常ということを知らぬわけではなかった。この世に永遠に続くものは存在せず、一切は遅かれ早かれ消えていく。中年期を迎えた彼の胸中に疼く愛や悲しみの情念もそうだろう。そういった情念は、日常を生きるための悩みや苦しみと同じく、すべて小さくて、無意味で、人間世界という大空に立ちのぼる一筋の儚い煙みたいなものではないか。そのことが彼にはわかりすぎるほどわかっていた。しかし……。(255)

私が訪れた当時、ヴェトナムには社会が複雑化する前の欲望に根ざした空気があり、外見が近代的になってきているぶんなお一層、人々のそういった面が目についたと思います。
この作品全体に流れる「荒々しさ」には、その当時のヴェトナムの空気感を感じました。

都市に流れる停滞感

また、この作品は過去の悲惨さを描く一方で、その時代を誇りに満ちた日々としても描いています。逆に将来(作品が書かれた時代)には否定的な視点が注がれています。苦しい時代の後に来る、皮相な時代を暗に示しているかのようです。
ヴェトナムの都市には、成長が途中で止まり、停滞している印象を受けました。成長著しい国と認識されているヴェトナムですが、都市を歩いてみて感じたのは、勢いがなくなった、どこか寂しげな印象だったと思います。

作者にとって「希望」とは

一方で、この作品には魅力的な警句が随所にあります。その表現からは、作者なりの希望が読み取れますが、それがひたすら過去に向かっているところに、「戦争の悲しみ」があるのかもしれません。

「人生には、知る必要のあるときに知らされなかったり、わかったときにはもう遅すぎて何の足しにもならなかったりすることが余りにも多い。それでも、知ることは知らないよりはましだろう」
同じ偵察の先輩から送られてきたこの手紙は、キエンの心をふんわりと温めた。過去の人生は決して消滅しない。過ぎ去った日々の一切は、まだ鮮明にそのまま残っている。この思い、つまり過去が蘇るという期待が、キエンを慰め、また励ました。(493)
彼はその声で目覚めた。それは彼とフォンの初恋の最後の呼び声だった。その声は、彼の心に刻みつけられたフォンとの幸せな過去、また二人の夢見た明るい未来を、キエンの心に呼び覚ました。明るい未来? 彼とフォンはそれを逃したのか。そうではあるまい。二人がひとたび夢見た明るい未来は、消え去ったのではなく永遠に残り、過去へ還りゆく道のかたわらで彼らを待っているに違いない。(495)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)

暗夜/戦争の悲しみ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-6)