『悪の華』『巴里の憂鬱』 ボードレール

昨冬から約半年間、ボードレールの有名なふたつの詩集を読んできた。『悪の華』は何度目かの再読、『巴里の憂鬱』は初読となる。
内容の理解を深めるにあたり、いくつかの論考を参照したが、以下の二編が特に参考になった。

浅田彰島田雅彦の解釈

ひとつは、浅田彰島田雅彦の対談集『天使が通る』におけるヴィム・ヴェンダース論。ここでは、ヴェンダースベンヤミンに連なる系譜としてボードレールが論じられる。
ベンヤミンボードレールに対するある種、共感――その共感というのは、ボードレール自身が、ベンヤミンの言葉だと商品世界の、永劫回帰としての社会、都市、それを自ら生きる、そこに潔さがあるということになるわけですね。」(島田)
「『悪の華』というのは、閉じた球体でも何でもなくて、全体がメールシュトロームみたいに渦を巻きつつ、ツァラトゥストラ的に言えば限りなく<没落>していき、しかし、そのことによって限りなく天使たちのほうに近づいていくというふうな、ある不思議な二重性を持っている。それで、ベンヤミンランボーじゃなくてボードレールに没頭するというのもわからなくはないんですね。」(浅田)

ベンヤミンの解釈

もう一つは、そのベンヤミンの『ボードレールにおける第二帝政期のパリ』。無頼漢や遊民、近代といった観点から、ボードレールと、彼が描写するパリを論じている。近代の市民生活を生活の中の語彙を使って描き、乞食、娼婦、老婆たちをも詩作の対象とする、ここにボードレールの近代性(モデルニテ)があるという。
「大都市の脆さを把握したことが、かれがパリについて書いた詩が長く持ちこたえていることの、根源にある」
たとえば、ヴィクトル・ユゴーに捧げた詩篇『白鳥』において、変わりゆくパリの中で消え去る人々が、次のように謳われる

私は思う 誰でもいい もう二度と戻らぬものをなくした人を
二度と、二度とだ!喉の渇きを涙でうるおし
やさしい牝狼のような「苦痛」の乳房にすがる人々を!
花のようにひからびて行く痩せこけた孤児たちを!
……
私は思う とある小島に置き去りにされた水夫たち、
とらわれの者、敗れた者!……ほかにもまだたくさんの人々を!

この「敗れた者」たちへの共感が、ベンヤミンの『歴史の概念について』に引き継がれていることは間違いないだろう。

モデルニテと都市の現在

確かに、ボードレールは都市の近代を描いた最初期の作家であり、その作品の特徴は近代性(モデルニテ)にある。しかし、詩を通して、あるいはその解釈を通して、現代の都市を問い直すことはできるだろうか。私が『悪の華』『巴里の憂鬱』から受け取ったものは、むしろ古典映画のような古めかしい印象であった。
たとえば、今の東京やパリで、『巴里の憂鬱』が可能だろうか?四半世紀前であれば『ベルリン・天使の詩』が可能であっただろうか...
また、ベンヤミンのいう大都市の脆さは、現代の都市にも当てはまるだろうか?『悪の華』が発表されて150年のあいだ、戦争の影響をのぞいて廃墟になった都市がどれだけあるだろう。廃墟としての大都市の出現を期待しつつも、それは『ブレードランナー』のようなSFフィクションでしか実現できないことを、私たちはすでに気づいている。
私は、今回ボードレールを読むに当たり、彼の作品の視点を借り、現在の都市を見たいと思っていた。しかし、ショッピングモールと観光客にあふれた現在の都市に、ボードレールの視点をあてはめることは難しい。彼のモデルニテを現在に繋げるあたらしい解釈、あたらしい文学の登場を待ちたいと思うが、フラヌール(遊歩者)であったボードレールを、書斎のなかでしか理解できないのは、少しさみしい。

悪の華 (集英社文庫)

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巴里の憂鬱 (新潮文庫)

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