こころへのセンサーを研ぎ澄ませる 『失われた時を求めて12 消え去ったアルベルチーヌ』 4/4

失われた時を求めて』は「意識の流れ」を表現したと言われる作品だけあって、こころの動きにかかわる微妙な表現には、何度もはっとさせられる。
物語の本筋からはずれるが、次に引用するような表現は、なかなかお目にかかれるものではない。

私が自分に発したこの問いに答えてくれたのがフォルシュヴィル夫人で、ベルゴットは手放しで褒めちぎり、これは大作家の文章だと言ったという。しかし夫人がそう言ったのは、私が眠っているあいだのことだった。要するに夢だったのだ。われわれが自分に発するさまざまな問いには、ほとんどすべての夢が、何人もの登場人物を配した演出を凝らして複雑な肯定の答えを出してくれるが、いずれも束の間の答えにすぎない。(384-385)

そして、時折あらわれる、人間の感情に対する冷静な洞察には、胸を締め付けられる思いがするのだ。
主人公が若い時代にバルベックで出逢った一人の青年。彼は、この巻の時代には作品が大いに評価されることになる。主人公は以前からこの青年と知り合いになりたいと考えていたが、それは秘められた才能ゆえにではない。

私は青年に才能があるといささかも予感していたわけではなく、私の目に青年が放っていた威光は――かつてブラタン夫人(ジルベルトの知り合い)が放っていたのと同種の威光で――、アルベルチーヌと友人の娘たちが何と言おうと、この娘たちの友人であり、わたしよりもその一団に近いということだった。(418)

最期に、主人公のアルベルチーヌへの愛が完全に消え去ってから、彼が悟った感覚を引用する。

今や私は、私の青春やアルベルチーヌの青春を悩ませた娘たちを見出すために、欲望の個性という原則にまたもや背かなければならなかったのである。私が探し求めなければならないのは、当時十六歳であった娘たちではなく、こんにち十六歳である娘たちだからだ。というのも、その人のなかに存在する特殊なものをとり逃がしてしまった私が、いまや愛しているのは、ほかでもない若さだからである。……私の記憶にその娘たちがよみがえったときにどれほどその娘たちに会いたいと願ったとしても、ほんとうにこの年の若さと花を収穫したいと願うなら、積むべきはその娘たちでないことを私は承知していたのである。(467)

つまり、消え去ったのはアルベルチーヌその人ではなく、アルベルチーヌの若さに象徴されるような、主人公の過去が消え去ったということが、作者の考えなのである。
しかし、私の周囲から消え去った多くの人たちにまで、このような判断をあたえ、思い出から切り捨ててしまってもよいものだろうか。プルーストの洞察は、ときに鋭すぎる。そして、世の中への認識がふかまるにつれ、生きる悲しみは否応なく増してくるのだ。
わたしたちは、ほんとうは、かつて愛した誰かに会いたいのではない。「会いたいと思う誰かに再会する」という行為に対するあこがれがあるだけかもしれないのだ。