[文学]『サンクチュアリ』 フォークナー

2012/6/4読了
作者であるフォークナー自身が「想像しうる最も恐ろしい物語」と語ったスキャンダラスな作品。しかし、現在の感覚からは、それほどスキャンダラスな印象は受けない。
むしろ、舞台となる当時のアメリカ南部の停滞した雰囲気や、終始暗さの支配する物語の展開に、ホラー小説を読んでいるような印象を受ける。
物語の中盤、弁護士であるホレス・ベンボウが、事件にあったテンプルの通っていた大学を訪ねるシーンがある。その部分では、彼は電車に乗り、近郊のいくつかの街をまわり、また車中で顔見知りの代議士と会ったりもする。だが、移動のなかで得られた成果は小さく、彼の思いつきは徒労に終わる。この部分の描写は、停滞感が漂う作品世界を象徴する部分と言えるだろう。
作品を読んだ後、フォークナーを知るきっかけとなった、柄谷行人氏による、中上健次の『枯木灘』の解説を再読した。
その内容は、ウォーラースタインの近代世界システム理論により、フォークナーや中上の小説世界を「準周縁(セミ・ペリフェリ)」=「南」に属するものとし、そこでは歴史と物語が交錯しているものとした。しかし、私がフォークナーや中上、あるいは同時代のマルケスなどの作品を読み、強く感じるものは、円環的な時間の流れ、物語展開の弱さ、つまりは作品世界に漂う停滞感である。
柄谷氏は、解説を次のように閉じている。
「私は現在の日本において、フォークナー的なもの、あるいは中上的なものが可能であるとは思わない。その意味では、中上とともに、日本の近代文学は終わったと思う。しかし、彼がいう「南」は、決して消滅していない。それは至る所にある。また、現在の世界的分業の再編成の過程は、中心、準周縁、周縁を新たなかたちで生みだすだろう。そこから出てくる文学は、一見して中上的なものと無縁と見えるかもしれないが、実はそうではないと私は考える」
これは、1998年に発行された本の解説である。
今回、『フォークナー短編集』『サンクチュアリ』と続けて読み、暴力的な描写は多いものの、その世界観や人々の振る舞いに違和感を覚えることは少なかった。
それは、私が十数年間生活している日本の郊外社会が、すでに新たなセミ・ペリフェリとなった証左なのだろうか。

サンクチュアリ (新潮文庫)

サンクチュアリ (新潮文庫)