『吉田秀和全集3 二十世紀の音楽』3/4

『現代音楽を考える』

これらの悲観的な視点を展開した後、吉田氏は図形楽譜やアドルノの音楽評論について意見を述べる。

「図形楽譜」
全面的セリーの音楽は、「数」の関係、数式的な思慮と関係づけられていたのに対し、図形楽譜の場合は、「ものの姿」、視覚的な像が、音楽の形成に本質的にからんでくる。そしてこの両者は、音・響きではなく、視覚的、数式的秩序が先に構想され、音はその聴覚的世界へのおきかえとして、あとから生まれるものである。「現代音楽」は、音楽がどこまでも「音楽」でしかないのに反抗し、「音楽」から自分を解放しようという企てから出発したのではないか?

「批判の彼方にある現代音楽」
アドルノは、音楽の「真正性」として、「その音楽が一つの時代を正確に、全的に反映していること」とし、そのような音楽を作り上げたシェーンベルクを評価し、「非真正なもの」として、ストラヴィンスキーを攻撃する。しかし、それは現代の私たちにとっても、独断と見えるのではないか?このことは、芸術の価値をその社会の反映としての性格から説明し、評価していくやり方に不十分な点があることを証明している。

論の最後は、次の言葉で締められ、やはり吉田氏の現代音楽に対する悲観的・懐疑的な視点が伺われる。

未来はわからない。わかっているのは、ただ、現在のこの一見奇怪しごくな芸術が、未来の予測の不可能性を、これまでのどんな芸術よりも強力に私たちに印象づけているということだけである。(259)

現代はこの論考が発表されてから約半世紀後の時代であるが、「前衛音楽」が、「モダンジャズ」などと共に、人口に膾炙した状況にないことを考えれば、吉田氏の予感は正しかったともいえる。だが、「クラシック音楽」から派生した諸ジャンルの音楽は、映像や美術と協同して新しい作品を生み出しており、またサティのいう「家具の音楽」として私たちの生活の中にあり、その意味での「音楽文化」自体には、特に滅びの兆しは見られない。それに、それらの音楽がkitschなものであるとは、私にはそれほど感じないのだ。
その状況をどう評するべきか?この先の時代の音楽と社会について書かれた論考があれば、そこに答えを探してみたい。