『吉田秀和全集3 二十世紀の音楽』2/4

『現代音楽を考える』

各作曲家論か続いた後は、これを踏まえたうえでの総論が続く。ここで、吉田氏はかなりペシミスティックな論を展開する。

「近代音楽の終焉」
そこに「理性と論理」の黙殺を見ないとしても、「力と意思」への冷たい拒否を感じないのは、困難であり、それがステントのいう、ここには何か恐ろしくまちがったことが起こっているようだという広汎な公衆の不安をひきおこす直接の契機となっていると私は思うのだが、もしそれが正しいとすれば、次の問題は、これが、果たして、一党一派の誤った芸術館に発した、不幸な、しかし一時的な誤りに過ぎないかどうかである。……
ともあれ、音楽の現状は、イヨネスコかベゲットの終末論的不条理劇に気味が悪いほど酷似している。
そうして、私には、この現状がいかに不快で不安をかきたてるものだとしても、これがまったく一時の気まぐれで起こった流行だとは考えられないのである。(114)

「悪い夢」
それは形体としては、今なお出来上がりの華やかさや豊かさ、それに伝統ある技術のつみ重ねからくる書きこみの精密さといったものを失っていないにもかかわらず、まるで、外からはまったく見えないのに、根の深いところで傷をおって、しだいに枯れてゆく樹木みたいに、芸術が立ちがれてしてゆく風景である。
そういう風景に面した思いを、私は、ときどき、日本画の展示会、展覧会にいって覚えるのである。日本画全体が、そういうものになったと呼べるのかどうか、それは、私は知らない。しかし、私は、日本画を並べてあるところにいくと、ほとんどいつも、そういう印象を与えられることは、告白しておく。
ことに、私がよく経験するのは、ここにはkitschとしか呼びようのない絵が、やたらとある事実である。(128-129)

「音色の追求」
電子音楽は音色的に見た場合、普通の楽器や人間の声と比較し、豊富などころか、逆にはるかに貧弱であることが、次第にはっきりしてきた。それは、スーラやシニャックドガセザンヌよりもコロリストとして輝かし成果をおさめたわけではなく、ましてゴッホゴーギャンに及ばないことを示唆させる。(150-151)