『グリーンバーグ批評選集』 1/4

アヴァンギャルドと抽象

 アヴァンギャルドが「抽象」あるいは「非具象」の芸術に到達したのは、絶対の探求においてであった。……そこで芸術家が模倣しているのは神ではなくて、芸術や文学そのものの規律と過程であることが分かる。これが「抽象」の起源なのである。詩人や画家は通常の経験という主題から注意の眼をそらして、その眼を自らの手仕事のミディアムに向ける。非再現的あるいは「抽象」は、もしそれが美的有効性を持ち得るならば、恣意的、偶発的であるはずはない。それは、何らかのそれ相当の制約とか原型への服従から生まれなければならない。いったん通常の外向的経験の世界が捨てられると、この制約の唯一残されているところは、芸術と文学がその世界を模倣するのにすでに用いていたまさにその過程とか規律の中だけとなる。(5-6)

全世界的なキッチュの跋扈

 キッチュは生まれ故郷の都会に閉じこもらず、田園地方へと流れ出し、民衆文化を一掃してしまった。また、キッチュは地理上の境界や民族文化の境界に対しても、何ら配慮を示さなかった。キッチュはもう一つの西欧産業主義の大量製品であるので、意気揚々と世界制覇の旅に出て、次々と植民地の土着の文化を押し退け、汚していった。その結果、今では普遍文化、かつて類を見ない最初の普遍文化になったと自称する。今日、中国の人々は南米インディオ同様に、またヒンドゥー教徒ポリネシア人同様に自分たちの土地の芸術作品よりも雑誌の表紙やグラビアのページやカレンダー・ガールを好む。(12-13)

音楽を目指す芸術

 アヴァンギャルドが音楽に関心を持ち、それによって音楽を一種の効果としてよりは芸術の方法と見なした時、初めて探し求めていたものを見出したのである。それは、音楽の利点とは主として音楽が「抽象」芸術であり、「純粋形式」の芸術であるということを発見した時であった。……非音楽芸術は、音楽という範例を受け入れ、各々、音楽以外の芸術を、ただその音楽の効果を認識する感覚あるいは器官によってのみ定義して、かつまた他の感覚あるいは器官によって理解できるもの全てをいずれの芸術家らも排除して初めて望みの「純粋性」と自己充足性を、すなわちアヴァンギャルドの芸術である限りは望んでいたものを達成するのである。それゆえに、肉体的、感覚的なものが強調されることになる。(37-38)