『吉田秀和全集3 二十世紀の音楽』4/4

第二部は、二十世紀半ばにおける、クラシック音楽をめぐる概観とでもいうべきもの。自分が付箋をつけた個所には、以下の内容が述べられていた。
十五年後に書かれた第一部に比べ、ややポジティブな結論となっている。この十五年の間に、氏の考え方やあるいは音楽と社会に、多少の変化があったのだろうと思う。
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・十九世紀後半から、各人が新奇をきそって捜索を続ける中で失われた音楽言語の連帯性は、十七世紀や十八世紀のようにふたたび回復されるだろう。十二音の音楽は今や世界各国に実践者を見出し、具体音楽や電子音楽に向かう人々も、ヴェーベルンを始祖と考えている。
ブゾーニのいう「劇音楽と純粋音楽の一元化」は、質量ともにすでに実現しており、むしろこれが今世紀の音楽の大きな特徴である。そして、生活の電化の推進は、テレビやラジオを通し、少なくとも量の上では音楽をますます生活に持ち込む結果となっている。
・今日の公衆と、かつて演奏会やオペラを生み出し支えた聴衆との違いは、演奏家やオペラの運命の浮沈やレパートリーの変改にも通じる。しかし、それらのレパートリーは非常に保守的でありことから、演奏会やオペラの構造そのものも、あまり変わってこなかったことが推測される。
ベートーヴェンやロマン派の音楽をしばらく来ていると、もっと自分を解放してくれる、軽やかで爽やかな音楽にあこがれる。そのようなとき、モーツァルトやそれ以前の十七世紀の音楽、されにはルネサンス期のミサ曲にふれたくなる。そして、ニューヨークやシカゴの孤独なインテリたちが、レコードをたよりに、ヨーロッパの音楽の流れを過去に遡ってゆく姿に、共感を覚える。
現代の音楽と社会の関係性に希望があるとすれば、その一つは「享受する聴衆から参加する聴衆」への変化である。これは、すでにナチス・ドイツが実用音楽や学校音楽の普及、縦笛やチェンバロの復活により推奨したことだが、戦後の日本では「歌ごえ運動」の普及が注目に値する。これは、ナチス・ドイツの例のように上から与えられたものではなく、自発的に興ったものであれるだけに、そのすこやかな発展を望んでやまない。

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽