新ヴィーン楽派を聴いて

 ここ数か月間、シェーンベルク、ベルク、ヴェーベルンといった、いわゆる「新ウィーン楽派」の音楽を聴いていた。
 ごく簡単に印象を言えば、シェーンベルクは無調以前の「浄夜」はもちろんのこと、無調以降の音楽も耽美的で比較的たのしめる。ベルクは、劇的であり、猥雑なところもあり、演劇的な様相がある。代表作「ヴォツェック」や「ルル」に現代劇的な要素があるため、なおさらそのようの感じるのだろうと思う。ヴェーベルンは、とりあえず頭で考えれば思想が一番分かりやすい。この三人のなかで「二十世紀の音楽」の要素を最も強く感じる。
 今回も、吉田秀和氏の解説を読みながら聴いた。曰く、シェーンベルクは調性の無化により手に入れた自由を、十二音技法により一段と高い次元で統一したとのこと。また、ベルク、ヴェーベルンの新しさは次のように評されている。

 (ベルクがヴィーン古典派以来最も進んだ作曲家であった理由は、)リズムの上での改革というか、新機軸というかで、まず『ヴォツェック』の中では、あるシーンの全部を一つのリズムによってかかれた変奏曲という破天荒で独創的な手法でかきあげているし、ついで『ルル』では、その手法がもっと拡大されている。ヴィーン古典派からロマン派に至るまでの音楽が、主として和声と旋律の扱いでは、つぎつぎと複雑さをまし、また見方によっては「洗練」と「爛熟」の極に達したのに反し、リズムの要素は機能的にも、現象としても副次的な立場におかれ、むしろその生命が衰弱したというのが一般の見方なわけだが、ベルクの音楽は、ストラヴィンスキーのとはまったく別の形で、歴史に対する強力で、大きな可能性を孕んだ反撃だった。『吉田秀和全集3 二十世紀の音楽』(101)

 ヴェーベルンの影響力の正統性は、この非暴力性から生まれてくるのであり、作曲の際の主体的な至上権の欠如に由来するのである。というのも、この作曲家の至上権というものは、それが強制的に加えられれば加えられるほど、何か盲目的に命令するものということになり、したがって、結局は全部これと違ってもよかったわけだという可能性を呼び起こすもとになる。ところが、ヴェーベルンの音楽は、はじめから、何かそこに現存している、絶対的なものとして受け入れる以外に手のつけようのないものという外観を与えるのである。(93)

 たしかに、このような解説を読むと、音楽はそのように聴こえるような気がする。しかし、私には吉田氏がヴェーベルンの音楽に見いだした「叙情」が聴き取れなかったことも認めなければならない。
 ここ何年かの間、十八世紀から歴史を追って音楽を聴いてきたが、ベルクやヴェーベルンの音楽に対しては、何か屈折の様なものを味わった。それは、単純にこれらの音楽に親しみがないためなのか、あるいは現在のポピュラーな音楽には、彼らの痕跡が残されていないからなのか?
 理由は分からないが、ここで止まらずに、次の時代の音楽も聴いてみよう。それらを聴くことで、彼らの音楽にもう少し近づけるかもしれないのだから。

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽

吉田秀和全集(3)二十世紀の音楽