聖なる文学、ホムンクルスとしての機械 −「パンサル」の思想 2/5

 特に、以下で引用する文章を読んだときは、思わず渋澤龍彦氏のことを連想した。著者も、この本で渋澤氏のことに触れ、尊敬をもって彼の言動を引用している。サドやバタイユを翻訳した渋澤氏のこと、栗本氏も一定の示唆を受けていることは間違いない。

・文学芸術は、日常性、現実性、それに伴う法や倫理を逆転し、そこに聖なる世界を現出せんとするものである。
 文学芸術に繰り返し持ち出される近親姦の主題は、現実ではなかなか起こりえないことを起してみせ、それによって、読む者や見る者を、一瞬の聖なる世界に遊ばせてくれるためにある。そこに描かれた世界が、甘美で神秘的で恐ろしいものであればあるほど、その世界を享受する側の現実の生活は、より強く近親姦のタブーに縛られているとも言えよう。(185-186)
・機械は故障したり、最終的には損壊したりする。その理由としては、物理学的、化学的な要因に基づく場合もあるが、多くは、作動原理がうまくいかなくなることによって起きる。機械自らが、作動原理を拒否することによって起きるのである。このような発想は古くからあった。機械や、あるいは人形のような物体の中には、一種の霊的なものが宿っている、という考え方である。(194-195)