旅をすること、拡張現実を観ること

確かに、すでに「外部」は存在しないかもしれない。しかし、「外部」のオルタナティブが、「いま、ここ」の多重化だけであるとは言えないだろう。
たとえば旅をするとき、小さな公園や寺院が、あるいは都市の裏通りや地方の商店街が、ふしぎな価値を帯びて、眼の前にあらわれることがある。そのような風景に出合えたとき、隠れていたものが見えてきたような驚きを感じ、日常の裏側に抜けられたような開放感を覚える。
「拡張現実」という言葉で、まずイメージできたものは、そのような旅行での体験だった。そして、風景に感応する力を与えてくれるものこそが、文学や絵画や写真、あるいは音楽なのだろうと思う。「拡張現実」という発想の現実への落とし込み方は、人さまざまだろうが、私の場合は、芸術の、無意識的な想像力への働きかけなのだと思う。
つまり、「拡張現実」を享受するためには、ネットワークやソーシャルサーヴィスは必ずしも必要ではないのだ。要は、それらの普及によって顕在化した、認識のありかたなのだろう。
巌谷国士氏はその紀行文シリーズで「ふしぎな町」という言葉を使っているが、ふしぎはmanifiqueの直訳で、フランス語では「素晴らしい」の意味もある。
「拡張現実」の想像力を使うことで、たとえその場所に物語がなくとも、「聖地」ではなくても、「ふしぎな町」はいくらでも見つけることができるはずなのだ。