「パンサル」の思想 1/5

 今年の春から夏にかけて、栗本慎一郎氏の「パンサル」シリーズ(『パンツをはいたサル』『パンツを脱いだサル』)を呼んだ。栗本氏というと、80年代や90年代によくメディアに出ていて、学者というよりはタレントとしての印象が強かった。
 だが、もともとは「ニューアカデミズム」の代表的な人物として、たとえば浅田彰氏とともに注目された人であり(『構造と力』にも栗本氏への言及あり)、著書を読めば分かるが、経済学・宗教学・人類学他さまざまな学問分野を統合し、「栗本理論」とも言うべきものを打ち立てようとするかたわら、メディア出演や政治活動もこなす、結構すごい人なのである。

80年代の名著

 『パンツをはいたサル』は、その一風変わったタイトルとともに、栗本氏の名前を知らしめることになった、80年代を代表する一冊。その名前だけは高校生の頃から知っていた。ただし、たとえ当時読んでいたとしても、頭では理解できるが、感覚ではよく分からないか、戸惑うような内容が多かっただろうと思う。
 だが、現代思想を少しは勉強して、それなりに年齢をかさねた今となれば、実感として理解できる内容も多い。それとともに、60年代や70年代に流行した思想の紹介本という位置づけも、この本は有していることが分かる。
 たとえば、次に引用する個所からは、バタイユバフチン、岸田透や山口昌男の響きが聴こえるはずだ。

・ヒトがパンツをはいたのは、裸になったからではなく、パンツをはくことがひとつの「進化」だから裸になったのだ。同じように、直立したから道具を使えるようになったのではなく、道具を使うことを選択したから直立したのだ。(41)
・生産したものをある瞬間に破壊し、蕩尽することが、ヒトにとってこのうえない快楽でなのである。そして、快楽なしにヒトは生存も進化もできない。
 法律や道徳や秩序に従う日常生活だけでは、人間は窒息し、精神は沈滞し社会は活力を失う。そこで日常性をひっくり返す瞬間を作っておかなければならない。あるいは、その瞬間のため、人間は秩序を作り上げたかもしれないのだ。(49-51)
・ヒトは、日常的世界の中では、ひたすら秩序やタブーを守り、生産的労働に励んで、“過剰”を溜め込む。そして、ある非日常的な時間と空間を選び、性という行為を通じて、一気に過剰を消尽する。すなわち、消費的労働である。
 つまり、ヒトの性行為の根源にあるものはエロティシズムであるが、そのエロティシズムの根源は性的なものではなかった。過剰に蓄えられた性的エネルギーを処理し、蕩尽するという意味からすれば、根源的にはきわめて「経済学的」なものだということができる。(91)
・ヒトは、性の行為を、過剰に一気に蕩尽する聖なる行為の類似物として位置づけてしまったがゆえに、いくら性のエネルギーが過剰だからといっても、のべつ幕なしにやるわけにはいかなくなってしまったのだ。のべつ幕なしでは、聖なる行為にはならないからだ。(104)
・文化が混ざり合うと、そのなかで比較的弱い集団ができあがり、そこに属するメンバーが、いわば共同幻想の混乱に耐えられなくなってくるのである。そうした場合に、一気に精神病が現われる。だから、言ってみれば、外的支配の成立や権力の成立が、神経症統合失調症の発生と時期を一にしているということができる。
 異質な文化が混ざり合っている近代社会に生きる私たちは、広い意味でつねに激しい神経症に苦しめられていることは確かなのである。(122)