『現代思想の冒険者たち バルト』 鈴木和成 2/2

・「文学」なき作家、という言葉によってバルトが言わんとするところは、文学が作家と一心同体であることをやめた、という意味である。……フロベールにとって写実主義の言語とは、「文学」という擬制ブルジョワジーの専有物の汚染からまぬがれるための一つの言語、一つの方法であった。……バルトによれば、フロベールが創始した写実主義の言語をもってしても「文学」という仮面を指でさししめすに十分ではないのである。「リアリズムのエクリチュールはこしらえ物のこれみよがしの記号で満たされれている」。 それはまだ演劇的で、神話的、あのストリップ・ティーズの思わせぶりを免れていないというのである。ひとことでいえば、文学的だというのである。(174-177)
・神話を神話と、ナチズムをナチズムと「文字どおりに」指さす行為、この行為をにないうるためには、神話作用からもっとも遠い言語を選ばなければならず、そのようにして選びとられる言語は、ニュートラルなものであらねばならなかった。……神話、文学、ブルジョワイデオロギーを構成する基本的な要素である言語を神話、文学から盗み出し、これをもって神話、文学を解体する――この「脱構築」的な方法は、『零度のエクリチュール』からはじまり、バルトが終生手放すことのなかった方法論であって、一見して歴史的な現実から後退したかに見える白いエクリチュール、彼の「言語のユートピア」の戦略はかならずしも無力で非力な退行的立場ではなかったのだ。(192-193)
・(日記について)このことは逆にいうと、私の目が一般にいかに世界を見ていないかが、日記によって証明されるということである。私は「尋常に写しとられた世界」のなかに生きていて、あの「肝っ玉おっ母」のように盲目であるのだ。 それゆえ日記を書く人の目があるがままの世界をそのまま見ているかというと、そんなことはない。私の目は私の主観の範囲にとどまっており、主観とはあらゆる神話や物語、「文学」の伏魔殿だ。ただ日記では一瞬、そうしたヴェールが裂けてなにやら見ることを禁じられたモノが、主観のない客観世界、バルトの言う「対象(オブジェクティフ)」それ自体が姿を現すようなのである。(280)
・『パリの夜』におけるバルトにとってのリアルなものとは、彼自身の「私」である。この「私」はまったき対象として読者の前に現れる。
 「現れるmontrer」という言語と語源を同じくするフランス語を使うなら、それは「怪物monstre」である。この怪物はみずからのリアルなものを隠すどんな内面の神話をも持たず、その意味では「文学」からかぎりなく遠く、彼が「順ぐりにふれてゆく」偶然事(アンシダン)の衣装を次々に身に着けてゆく。換言すれば神話作用のヴェールを次々に脱いでゆく。(284)
・そんなとき、一枚の写真がロランの視界を過ぎる。一人の少女、温室の中で撮影された五歳の母親の写真である。
 そこにロランは母親が亡くなる前の数年間、彼にとってそうであったところの「少女」の姿を見出した。この「温室の写真」の少女は、もはや母親に似ているのではない。母親そのものだ。母親の本質(エサンス)を開示する何物かである。彼は自分にとって親しいものであったヌーメンの身ぶりをもって叫ぶ、「これだ!C'est cela!」と。これが第二部におけるプンクトゥムだ。…… このようにして第二部で論じられたストゥディウムとプンクトゥムに類別にたいして、別の、新しいプンクトゥムが第二部で登場し、これが前二者を打ち消すのだ。ここに「前言取り消し」がある。(292-293)

バルト―テクストの快楽 現代思想の冒険者たち

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