『レヴィ=ストロースとの対話』 ジョルジュ・シャルボニエ 2/4

・先ほど私が言及した芸術的生産の変貌が、文字をもった社会の中で起こったということは、おそらく偶然ではありますまい。――文字がルネサンスにとって新しい現象であったとは言いませんが、少なくとも新しかったのは印刷術の発明でした。すなわち、社会生活にとって文字が果たす役割の大きさの次元の変化でした。――そしていずれにせよ、アテナイギリシアフィレンツェのイタリア、この二つの社会では、階級と富における差別が際立っていて、要するに一つの芸術はこの二つの場合、芸術の中に内面的な快楽の手段または道具を求める少数者のものとなり、未開と呼ばれる社会において芸術が集団のレベルに働きかける意思疎通の一つの体系であった以上に、少数者のものとなってしまったのです。(64)
ギリシア彫刻の中には、そして十五世紀以降のルネサンス期のイタリア絵画の中には、モデルと向かい合ってそれを意味しようとする努力、いわゆる未開民族の芸術において、あれほど感動的である、あの純粋に知的な態度だけでなく、一種の魔術的な霊感の浴場があるように見えます。というわけは、それが、人が存在と交流しうるのみならず、肖像を通して存在を我が物とする、という錯覚の上に安んじているからなのです。私が「対象を所有物化する欲望」と呼ぶのはこれのことです。それは一つの富あるいは外面の美を占有する手段なのです。その所有者あるいは観客の利益のために、対象物を捕えようとする貪欲な要求、野心のうちにこそ、我々の文明の芸術の大きな独創性の一つが宿っていると思われます。(66)
・(印象主義について)これは或る意味では一つの反動的な革命なのです。それ以前に支配的であった因習を覆すからにはたしかに革命なのですが、しかし人々はやっぱり問題の根本に気付かないのです。この問題の根本――あるいはもっとも深い問題――は、芸術の意味論的性格のうちにあります。「所有慾的・表現的」な様相は、印象主義の中に全面的に生き残っていて、他の意味ではどんなに私たちにとって重要なものであろうとも、その革命は表層的な、表皮の革命なのです。(73)
・立体主義(キュビズム)について言えば、この画派は第二の相違点に挑むことで同じ革命を継続しています。立体主義は芸術の意味論的真理を再発見します。それというのも、その本質的野心はもはや表現するだけではなく意味することにあるからです。
 ただし、芸術的生産の条件がまだ個人主義的なものにとどまり、立体主義はそれ自身では芸術作品の集団的機能を再発見できていない。(76-77)
→L・Sは、ここで芸術の革命について述べている。しかし、彼の考えを読むと、革命により、芸術の社会的役割が、未開民族のそれと同じようなものになることを望んでいるようにも思える。この点でも、彼は「冷たい社会」の到来を望んでいるのではないか。