『「悲しき熱帯」の記憶−レヴィ=ストロースから50年』 川田順三 2/2

 本の後半は、著者の人類学者としてジレンマがつづられる。国家が経済危機にあり、数多くの貧民がいる中、多くの予算をかけて保護される先住民の問題。先住民の現代社会への同化と、それにより否応なしに発生する彼らの貧困化。開発の問題に対し、人類学者はどのような態度をとるべきか。

 『悲しき熱帯』の時代も含めて、かつての古典的民族学者、人類学者のように、「未開」社会の標本や資料を、人類学者の住む社会に持ち帰って成果をあげればすむ状況に、いま私たちはいない。人類学者は研究対象とされている社会との政治的、倫理的なかかわりで、研究の成果を「彼らの」社会にも還元することを求められている。そのとき人類学者は、彼がこれまで関心をもってきた「未開」が政治・経済学者の領域とみなされてきた「低開発」の別の側面であることを、否応なしに知らされるのだ。(127-128)

 12年後に書いた文章では、その答えとして、「個別の人文・社会科学に対しての一種のメタ・サイエンスとしての役割のもつ意味、個々の人間社会からはあえて距離を保ち、自然史の中での人類の位置づけと人類史の中での個別社会の位置づけを基本的視野とする立場からの、人類の問題への発言のもつ意味を重視したい」という立場を述べる。
 最後に、著者が『悲しき熱帯』の訳者として、完成までこだわっていた"Tristes"というフランス語について。レヴィ=ストロースのブラジルへの想いを表すこの表現について、著者は次のように述べる。

 二十世紀のレヴィ=ストロースは、フォン・デン・シュタイネンなど、その後民俗学者が蓄積したブラジル先住民についての知識をふまえて、より醒めた目で、この偽りの楽園の偽りの野蛮人に相対する。西洋人とその文明の侵入によって、殺され、追いつめられ、「未開にさせられた」インディオに、彼らを追いつめた旧世界の西洋文明に属する一人として、レリーのように開かれた心で接し、まもなく滅びてしまうかも知れないその姿を記録し、分析して人類共通の知的財産とする――逃れることのできないその撞着の中に身を置いて作業をする人類学者の苦衷が、"Tristes"という形容詞を、彼の置かれた場を表すのに選ばせたのだろう。(195-196)

 読後、様々思うことはあったが、特に人類学者の役割について、著者の考えに魅力を感じつつも、それが開発や経済問題の現場で、どの程度影響力を持つことができるか、難しさも感じた。早急に結論を出せるものでもないので、自分の中で少し考えがまとまったら、いずれこの点について書いてみたい。