『レヴィ=ストロースとの対話』 ジョルジュ・シャルボニエ 3/4

・未開民族も近隣住民の芸術の事は知っているが、それにたいしては拒否する態度をとる。安易に外的要素を取り入れるなら、芸術の意味論的機能・社会内での役割が崩れ去ってしまうという、尤もな理由からそうしている。この考え方によれば、現代の芸術家(ピカソ、マッソンなど)の様式の豊富さは、異種の言語の同化ではなく、言語をもてあそぶ一種の根拠のない戯れにすぎない。(81-82)
・現在芸術の袋小路。とくに抽象絵画の場合「私たちはもはや一つの記号の体系しか持たない、但し、それは「言語外の」記号体系なのです。というのは、その記号の体系は一個人の創造であり、しかも、その個人はその体系を頻々と変える恐れがあるのですから。(94)
→この危機感は、確かに50年代、60年代の難解な抽象絵画を見れば、実感できるものかもしれない。しかし、評価される芸術が、よい「分かりやすい」ものへのシフトしているのが現在であり、その分かりやすさは社会の共通感覚とも接続する可能性を持っている。その意味で、商業映画やポピュラー音楽などの大衆芸術が果たす役割は、思いのほか重要である。
・十八世紀のフランスの海港を描いているジョゼフ・ヴェルネのあれらの偉大な画、海洋博物館の大広間に陳列されているあれらの画は、いつも私にきわめて深い感動を起させる数少い画の一例です。こうした画でなら私は生きられるだろうと容易に想像がつきます。またそれらの画が表現している情景が私にとって、現実に私を取り囲む情景よりもさらに現実的なものになることも想像がつきます。ところで、私にとってのそれらの画の価値は、その時代にまだ存在していた海と陸地との関係を再び生きるすべを私に与える、という点にあります。つまり、地質や地理や植物群との自然的関係を完全に破壊することなく、むしろ適当に調節し、かくして、好みの現実、そこに逃避することのできる夢の世界を回復するところの人間的設備を与えてくれるのです。(107-108)
・私たちは、もうすでに承知の状況に又もや陥ることになりましょう。その状況とは、きわめて短いその期間を特徴とするものです。なぜかというと、自然的芸術(鉱石や貝殻類)と呼びうるものにおいてすら、人間はじきに倦きてしまい、新たに人間的芸術への郷愁を体験するものだからです。(111)
→L・Sは、ここで人間が作った芸術が飽きられ、人々の美的関心は自然そのものに向かうことを予言している。しかしそれは、彼のような知識人にのみ限定された感覚ではないだろうか。例えばこの区分では、映画や音楽は人間的芸術だが、一般大衆はそれに郷愁を覚えるどころか、自然的芸術に親しむ段階にすら入っていない。立体主義や抽象芸術は、倦きる以前に、多くの人のとってそもそも近寄りがたい形態なのだ。