『神話作用』 ロラン・バルト 2/2

 本社の後半は、「今日における神話」として、前半の各論を踏まえた、総論的な内容となっている。
 バルトの基本的な考えは、訳者による解説に以下の通り要約されている。
 「言語の作用について、今日の言語学が、?意味するもの?(能記)と?意味されるもの?(所記)との関係である?意味作用?、という図式を提示していることを思い出そう。そして、≪記述≫という考えは、この?意味作用?を、第二次の言語の作用における?意味するもの?としてしまうことにあるのに、注目しよう。これは≪超言語≫(メタ・ランガージュ)と呼ばれるものである。そして≪超言語≫の研究は、必然的にバルトを構造主義に導いたと思われる」(219)
 この第二次の言語作用が「神話」ということになる。その戦略や機能について、たとえば次のようなことが語られる。
 「一般に、神話は、貧弱で不完全な映像の助けで作用する法を好む。そこでは意味はすでに厚みを抜かれ、一つの意味づけに対してすっかり用意ができているのだ。即ち、戯画、模写、象徴などである。つまり有縁化は、いくつかのほかの可能な有縁性の中から選ばれる。「フランス帝国」性に対して、ニグロの軍礼以外の多くの、意味するものを与えられるのだ。――フランスの将軍が片腕のセネガル兵に勲章を与えている……――新聞雑誌は、毎日、神話的な意味するものの予備が無尽蔵であることを示すのを務めとしているのである。」(165-166)
 「ブルジョワイデオロギーは、不可変の自然を復元するであろう。……それは、これからは、科学主義的または直観的となり、事実を確認し、または価値を認め、けれどの説明は拒否するであろう。世界の秩序は自己充足的または言わく言いがたいものとなり、決して意味のあるものとはならないであろう。結局、完全にすべき、可動の世界という初期の観念は、無限に再確認される同一性によって定義された、不可変の人類の、裏返しの映像を生み出すであろう。つまり、現代のブルジョワ社会においては、現実からイデオロギーへの移行は、反自然から偽自然への移行として定義されるのだ。」(187-188)
 「毎日そしていたる所で、人間は神話に捉まり、自分の代わりに生きている不動の原型に神話によって引き戻される。その原型は、巨大な寄生虫のように内部から人間を窒息させ、人間にその活動の限界を示し、その範囲内で人間は世界を変えることなしに苦しむことを許される。ブルジョワの偽自然は完全に、人間に対する自己を作り出すことの禁止である。……神話の欲することは、すべての人間が、永遠でありながら日附のついているあの映像、人間について或る日あたかもすべての時代に通じるかのように作りだされた映像の中で、互いに認めあうことに他ならない。なぜなら、永遠化するという口実のもとに人間がその中に閉じこめられる自然は、慣用にすぎないからだ。そして、この慣用がいかに偉大なものであれ、人間はそれを手に掴みとり、変形するべきなのだ。」(206-207)
 最後に本書の訳者は、解説において、バルトの学者として姿勢を次のように述べている。
 「バルトは、東京でのゼミナールで、構造主義マルキシズムが一つのイデオロギーであるという意味ではイデオロギーではない、と言い切った。構造主義は研究の方法であり、知的手段であるだけだ。この点に関して、ゼミナール最終回の結びのことばを伝えておこう。?構造主義は、一つの倫理を伴う大イデオロギーと競うことはできない。構造主義的研究者は世界との関係の中にいるが、それはマルキストと同じ関係の中にではない。構造主義は諸大イデオロギーの偶像のもたらす偏見の分析である。知識人は、生涯を通じて、絶えず新しい方法を用いて、偶像と戦うべきなのである。?
 この姿勢は、この訳書「神話作用」に最もよく表れているのは、言うまでもない。」(226)

神話作用

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