『スプートニクの恋人』 村上春樹

2010/1/6読了

フェリーが島に着いたのは七時過ぎだった。日差しの激しさはさすがに盛りを越えていたが、空は依然として明るく、夏の光はむしろその鮮やかさを増していた、港の建物の白い壁にまるで表札みたいに、島の名前が黒々と巨大な字で書いてあった。船が島の岸壁に横付けになり、荷物を下げた乗客が一人ひとり順番に舟橋をわたって降りた。港の前は開けた屋外カフェになっていて、出迎えの人々はそこで目当ての人間が降りてくるのを待っていた。
ぼくは船を降りるとミュウの姿を探し求めた。しかしそれらしい女性の姿は見当たらなかった。民宿の経営者が何人か、「あんた、泊るところを探しているのか?」と声をかけてきただけだった。ぼくはそのたびに首を振って「ちがう」と言った。彼らはいずれにせよぼくの手に名刺を残していった。
船を降りた人々は銘々の方向に散っていった。買い物帰りの人々はそれぞれの家に、旅行者はどこかのホテルか民宿に。出迎えに来ていた人々も目当ての誰かと巡り会って、ひとしきり抱き合ったり握手をしたりしたあとで、連れだってどこかに消えていった。二台のトラックとプジョーのセダンも船から降ろされ、エンジンの音を残して走り去った。(135-136)

店の外に出ると、染料を流し込んだような鮮やかな夕闇があたりを包んでいた。空気を吸い込んだら、そのまま胸まで染まってしまいそうな青だった。空には星が小さく光り始めている。夕食をすませた土地の人々が、夏の遅い日没を待ちかねたように家を出て、港の近辺をそぞろ歩きしていた。家族がいて、カップルがいて、仲の良い友だちどうしがいた。一日の終わりのやさしい潮の香りが通りを包んでいた。ぼくはミュウと二人で歩いて町を抜けた。通りの右側には商店や小さなホテルや、歩道にテーブルを並べたレストランが連なっている。木の鎧戸がついた小さな窓には親密な黄色い明かりがともり、ラジオからはギリシャ音楽が流れていた。通りの左手には海が広がり、夜の暗い波が岸壁を穏やかに打っていた。(145)

彼女はそのまま泣き出しそうに見えた。あるいは大声で叫びだしそうに見えた。でもなんとかそこに踏みとどまった。ステアリングを両手できつく握りしめていただけだった。手の甲が少し赤くなっていた。
「わたしがまだ若かったころは、たくさんの人がわたしに進んで話しかけてくれた。そしていろんな話を聞かせてくれたわ。楽しい話や、美しい話や、不思議な話。でもある時点を通り過ぎてからは、もう誰もわたしには話しかけてこなくなった。誰ひとりとして。夫も、子供も、友だちも……みんなよ。世の中にはもう話すべきことなんてなにもないんだというみたいに。ときどきね、自分の身体が向こう側まですっかり透けて見えるんじゃないかって気がすることがあるの」
彼女はステアリングから手を離し、それを宙にかかげた。
「でもきっと、あなたにはそんなこと言ってもわからないわよね」
ぼくは自分の中に言葉を探した。でも言葉は見つからなかった。(303)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

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