『フランス映画史の誘惑』 中条省平

2009/11/8読了

詩的レアリスム

観客の心をとらえたのは、そうした物語を通じて表現されるペシミズムの強烈さでした。それは一見、非常にリアリスティックな目で描かれているように見えながら、じつはそうではありません。人間の運命への敗北、ペシミスティックな世界観が、文学的な雰囲気の中で肯定され、巧妙な詩的演出によって美化されているのです。
要するに、フェデール、デュヴィヴィエ、スパークによる<私的レアリスム>の本質は、「暗さ」の美学化に尽きるといってもいいでしょう。最後には滅びてゆく人間の運命が、あいまいな文学的叙情性、高尚な哲学性の衣をまとって、深遠な人生観として賛美されているのです。
(さらに、ドイツ表現主義アメリカのギャング映画との類似性から)フランス独自の映像美学と思われがちな<詩的レアリスム>は、けっして同時代の世界の映画の流れと切りはなせないものでした。(87-88)

ジャン・ルノワール

レアリスムでもあり、詩でもあるスタイル。思えば、これほどルノワール芸術を定義するのに適切な言葉はないのではないでしょうか?<詩的レアリスム>という漠然とした雰囲気ではなく、断固たる現実主義(レアリスム)であり、本物の詩でもある映画。ルノワールは、レアリスムと死をあいまいに折衷するのではなく、本来相容れない現実と詩とを大胆に併置したのです。そこに、いま見てもまったく色あせることのないルノワール映画の迫真力と懐の深さの秘密があります。そして、ここに、のちにゴダールトリュフォーロメールやリヴェットやシャブロルなど、<ヌーヴェル・ヴァーグ>の若者たちが、ルノワールを自分たちの「映画の父」として敬愛する理由があるのです。(109)

ヌーヴェル・ヴァーグ作家主義

カイエ・デュ・シネマ」の若い批評家たちは、「作家主義」を支持し、自分たちのことを「ヒッチコック=ホークス主義者」だと称していました。彼らの賞賛する映画「作家」をとくにアルフレッド・ヒッチコックハワード・ホークスで代表させるのは、このハリウッドきっての職人監督ふたりが、文学性などとはなんの関係もない純粋な娯楽映画作りに徹することで、逆に、真の映画表現の本質をきわめてしまった、と考えるからです。当時の映画批評家がまともに論じようともしなかった「職人」監督であるヒッチコックとホークスを、あえてもっとも偉大な「作家」だと主張するところに、「カイエ派」の作家主義の独自性があったわけです。
そして、「カイエ派」の若い批評家たちは、スタジオ(映画撮影所)のプロによる分業システムのもとで、シナリオを他人まかせにして、安定したドラマ作りに腐心する従来の演出家の位置を否定し、どんな商業作品にもまぎれもない自分の刻印をしるす映画監督こそ「作家」の名に値すると考えました。そして、いったん「作家」と認めた映画監督の作品は、すべて区別なく愛し、擁護するという過激な姿勢を鮮明にしたのでした。(168-169)

フランス映画史の誘惑 (集英社新書)

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