後期バルト ―『ロラン・バルト伝』 ルイ=ジャン・カルヴェ 5/5 

 一九七〇年代後半以降のバルトは、それまでとはすこし毛色の違ってくる。もともと硬派な印象が強いわけではないのだが、われわれが「ロラン・バルト」という固有名詞から受ける、耽美的で、少し退廃的な趣もある感覚は、この頃の思想にもっとも現われていると思えるのだ。 

快楽主義者としての後期バルト

 「私にとって日本は、非常に官能的であると同時に非常に美的な空間であり、官能性のうちにある優雅さの並々ならぬ教訓だからです。」そして彼は、まさに空間と言っているのであって、国と言っているのではないと断り、日本の経済的、政治的構造には触れようとしない。おそらくここにこそ、要約された形で、真の総括が、いわば現状明細書があるのであろう。一九七五年のこの初頭、ロラン・バルトは快楽主義の立場に立つことを公然と認めているのである。(414)

バルトによる記号学の定義

 (コレージュ・ド・フランスの開講講義より)「ある時期になると、私は、次第に耳が聞こえなくなったかのように、もはやただ一つの音、言語(ラング)と言説(ディスクール)の入り混じった音しか聞かなくなりました。そうなると、私には、言語学がある大きな錯覚、間違った対象にもとづいて作業をしているように思われました。言語学は、奴隷たちの髪の毛で指をぬぐうトリマルキオのように、言説のもつれた糸を指でぬぐって、不当にもその対象を清潔で純粋なものにしているのです。そこで、記号学は、言語の不純物、言語の残り滓、メッセージの直接的なゆがみを引き受ける作業、ということになりましょう。生きた言語を構成する、さまざまな欲望、恐れ、媚態、威嚇、提案、愛撫、抗議、弁解、攻撃、音楽をもっぱら引き受けることになりましょう。」……この列挙のうちには、彼が書き終えたばかりで、三ヶ月後に出版される書物、『恋愛のディスクール・断章』の反響のごときものがあることを、聴衆は知らないし、また知る由もない。(430)

バルトの写真論と言語

 彼は絵画について語った時と同じように写真について語っており、写真のうちにただ言語的内容だけしか見ず、写真を眺める人を狙う映像だけしか見ていないのだ。この点では、すでに昔からとっている立場に忠実なのであって、ある記号の背後には常にその記号を支える言語があるとしているのである。だからこそ彼は、フェルディナン・ド・ソシュールの提言とは逆に、記号学を包含するのは言語学であって、その逆ではないと主張したのだ。彼が温室の写真を掲載せず、単にその写真のことを言うだけにとどめることができたのは、まさしく彼が、かなり無頓着にも理論を捨てて、写真はそれが示すものによってしか価値をもたず、その示し方――フレーミング、鮮明度、構図など――によって価値をもつのではないと考えているからである。ということは、もちろん、写真家の技術を取るに足らないものとしてしまうということである。(468)

政治の場に文学を導入すること

 一九七七年にベルナール=アンリ・レヴィが発表した著書にたいする公開状において、バルトは、レヴィの政治的論文のなかにある「文学的充実性」を評価する。
 この一九七七年という年には、バルトは、小説的なもの(ロマネスク)に向かう分岐点を示すと考えられる『恋愛のディスクール・断章』を発表している。そしてかれは、この公開状をこうしめくくっている。自分が「現在関心を寄せているあの≪エクリチュールの倫理≫の問題に、この書物がいかなる点でつながるかを指摘するのが適切である(……)と私には思われたのです」と。この倫理的次元こそ、思弁的な思考のうちに文学を再導入するものであり、バルト自身の発展によってその妥当性が否定されていた対立(作家/著述家)に代わって、彼が探し求めていたものになりうるものだったのである(478)

バルトの記号論とは

 本書の末尾には、バルトのまなざしによって見出されたものが、次のように簡潔にまとめてある。このように要約されてしまうことはバルトの本望ではないだろうが、彼の記号論をものすごく簡単に説明すれば、このようなものになるのかもしれない。

 「彼はベートーヴェン交響曲のように、一つの大きな中心テーマを持ち、あちこちで、たくさんの小さな寄り道をし、ちょっとしたことを書きたいという気をおこしますが、しかし常に同じテーマに戻ってくるのです。」その反復される中心テーマがバルトの真の教えなのである。つまり、われわれは記号に満ち満ちた世界に生きているということ。それらの記号が、記号表現の仮面の陰に隠れ、エクリチュールの陰に隠れ、≪自然なもの≫の偽りの明白さ、にせの良識、衣服、演劇などの陰に隠れているのを、われわれはほとんどコード解読することができなかった。ある都市の地図が、文芸批評の言説が、フライドポテト添えビフテキが、三面記事の扱い方が、ある社会的な意味を含みうることを知らなかった。そしてバルトが、そうした記事を感知できるようにしてくれたのである。(520-521)

ロラン・バルト伝

ロラン・バルト伝