『シンス・イエスタデイ』 F・L・アレン

2009/10/25読了
今年の夏に読んだ『オンリー・イエスタデイ』の続編となる本書だが、前作が大衆の生活の描写に力点を置いていたのに対し、本作は政治・経済などより大枠のものに多くの部分が与えられている。

それは、一九三〇年代のアメリカ生活の中心は明らかに巨大な経済および政治の転換にあるからだ。一九二〇年代には、それが国民生活の本質とかかわっていた瑣末な事柄は、今日ではさして重要ではないと考えたからである。(障ノ)

三〇年代前半のトピックとしては、次のことが挙げられている。
禁酒法の顛末。その継続・廃案をめぐり、茶番のような議論が繰り広げられる。
・公立図書館において、小説のような“鎮静剤”的読物だけではなく、ロシア革命など社会や経済を解説した本が借りられるようになる。
・上院の調査委員会により、「責任ある地位にある連中」による株価の不正操作が明るみになる。
・人々は、思想や反道徳でなく、むしろ「不況」という実際上の問題から、自制したり不品行になったりした。
この時代の空気を表したものとしては、次の表現が引用されるだろう。

リンドバーグ家の誘拐事件に関し)一家が(暗黒街にはまったく法律の力が及ばないとでもいうように)暗黒街の顔役たちと取引をせざるを得なかったということは、大きなショックを与え、牧師や説教者、論説委員や評論家に多大な失望感をもたらした。何かが腐敗している。世の中が歪んでいるという悲劇的な感覚が深く浸透していった。(76)

率先してこの国を開拓した人びとの息子や娘たちは、ささやかな変化を求めてビンゴゲームやスロットマシーンに危険を賭したとしても、生活を賭けようとは思っていなかったのだ。
思いがけなくも、はかなくも、希望が高く湧き上がったあのニューディール蜜月時代の望みに満ちた短期間を除くと、アメリカ人の動揺した気分のなかには、一貫して恐怖の暗い流れが継続していた。彼らは、足元の岩のように堅固な確実性と安全さとを入手したいと望んでいた――が、それが得られなかったので、ひたすら恐れていたのである。(170-171)

三〇年台後半には、次のような現象が見られるようになる。
・階級の固定化の兆し。「賃金の高いもっと重要な地位は、特別に訓練された人々でつくられた他の階級に移ってい」るという事実に、熟練労働者たちが気付きだしたこと。
・『タバコ・ロード』など、作家や批評家、エリート知識人の中での、貧しい人々や社会問題を取り扱うことの流行現象。
・映画の中に現われた「夢のアメリカ」。誰もが金持ちで、何らやっかいな社会問題が起きない世界、しかもそれを八千五百万人もの人々が好んでいたということ。
芸術作品に現われた新しいアメリカ像については、次の批評が引用されている。

(ウォーカー・エヴァンズの写真に関し)この冷徹な写真集がアメリカの素顔をあばいたという大方の説を否定して「コブやイボ、デキモノや黒ニキビなどがあると指摘したことで、アメリカの特長に似せた」程度にすぎないと述べている。この評言は、文学の社会的意義を信奉する作家が書いた小説の大半にも、そのまま当てはまる。……ホクロやシミが見えてくるまでは、必要がなければ、カメラはケースの中に閉じこめておくこと、皮相的には生活の醜さをあらわしていると見えるものも、独自の見方でとらえれば、やり方によっては美的にとらえることができるものであること、そして身辺の日常的事物を、芸術家であると同時に記録者か社会学者でもあるような視点でとらえ始めると、人々はそれらを理解できるようになるということなのである。(280-281)

やがて、時代は戦争に突入する。それは、同時にひとつの時代の終幕を告げるベルでもあるのだ。

「今朝、ベルリン駐在の英国大使は、ドイツ政府に、ポーランドから即時撤退を行なう用意をするということを午前十一時までに通告してこないかぎり、われわれは戦争に突入するという最後通牒を手渡ししたところです。何の回答も得られないので、結果的に、我が国はドイツと戦争状態に入ることになります」
数千マイルの彼方から、たいへんもの静かに語りかけてきたこの言葉によって、アメリカの一つの時代が終わり、新しい時代への第一歩が踏み出された。(365-366)

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)

シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (ちくま文庫)