『神話作用』 ロラン・バルト 1/2

 本書の前半は、バルトが1954年〜56年に発表した、エッセイからの抜粋。
 いずれも、現代文化批評の趣があり、たとえば分析対象をタレントやキャラクターに置き換えれば、今の日本でもバルトの考え方が適用できるくらいの普遍性はある。
 ただし、現代日本における「神話」の作り手や受容者は、「神話」であることをある程度分かったうえでやっている程度の批評性は備えていると思う。そして、その批評性が見えないものに対しては、私自身は不快感であったり、気持ち悪さを感じてしまうのだ。

レッスルする身体

・観客が求めるのは、情熱のイメージであって、情熱それ自体ではない。レスリングにおいては、劇場においてと同様、真実という問題はないのだ。どちらの場合でも、期待されているのは、通常は秘密である精神的状況のわかり易い形象化である。この、外的表象のために内面をからにすること、形式によって内面を汲み尽すことは、正に勝ち誇る古典芸術の原理である。……レスラーの身振りはいかなる物語、いかなる背景も必要とせず、一言にしていえば、本当らしく見えるためにいかなる転移も必要としないからだ。(9-10)
・この誇張は、現実の完全な明白さという古来からの民衆的イメージにほかならない。レスリングによって身振りで示されるものは、だから、事物の理想的な明白さであり、人間であることの幸福感であり、日常の状況の基本的なあいまいさの外へ一時的に高められ、意味表象が障害も逸脱も矛盾もなく遂に原因と一致するような包括的な自然のパノラミックな見通しの中におかれている。(17-18)

映画におけるローマ人

・このしっつこい毛の房はいったい何と関係があるのか。ただ単にローマ人らしさの誇示である。ここにこのスペクタルの主要なバネがあからさまに見て取れる。即ち、≪表象≫である。……かれらの一般性は、全く安全にふくらみ、大洋と諸世紀を横切り、ハリウッド役者のヤンキー面と一致することさえできるのだが、構うことはない、皆が二重性のない世界の静かな確信の中に腰を落着けて安心しているのだから、その世界では表象の中で最も読み取りやすいものによってローマ人はローマ人なのだ。つまり額の上の毛である。(24-25)
・もし演劇・映画が世界をより明晰にするためにつくられているということがよいのだとしたら、表象と表象されるものとを混同することには、責めるべき偽善があるのだ。そしてそれはブルジョワ的演劇・映画に特有の偽善なのだ。知的表象と内面的表象との間に、この芸術は、省略的であり同時に要求の多いまがいものの表象を配して、それに≪自然さ≫という誇らしい名を与えているのだ。(27)

感じのいい労働者

・わかることは、このシーンを客観的に瞞着の挿話にするのは、その参加的性質であることだ。最初からブランドを愛するようにしむけられ、われわれはいかなる時も彼を批判し、彼の客観的愚行に意識を持つことがもはやできない。ブレヒトが役の異質化の方法を提起したのは正にこのようなメカニズムの危険に対してであることは知られている。ブレヒトだったらブランドに、その素朴さを示し、われわれが彼の不幸について持ち得るすべての同情にもかかわらず、その不幸の原因の解決法を見つけることがもっと大事だということをわれわれに理解させることを求めただろう。(57)

ラシーヌラシーヌ

・少なくともわかることは、定義におけるこのような虚無がその定義を振り廻す者たちにもたらすものだ。即ち、一種のちっぽけな道徳的救いであり、ラシーヌについての一つの真実のために戦ったという満足感であり、といって、真実についての少しの積極的な探求なら必ず宿命的に背負い込む危険をいささかも引き受けはしないのだ。同語反復は考えを持たずにすます。けれど同時にこの勝手さをきびしく道徳律にしてしまうほどにふくれ上がるのだ。そこからその成功が生じる。怠惰は厳密さの高みにまで引き上げられる。(82)

ミヌウ・ドゥルエによる文学

・社会が≪詩的≫謎を解こうとして殆ど司法的な手段を導入したのは、単なる詩への趣味からだとは思えない。それは、子供詩人というイメージが、社会にとって驚きであると同時に必要だからである。これは、ブルジョワ芸術の中心的な神話を支配しているだけに、可能なかぎり科学的なやり方で正当化しなければならないイメージなのだ。(114)
・この問題について、子供の詩人となるといつでも引き合いに出されるランボオの名が持ち出されさえするこということは、純粋の神話からやって来るのだ。それにしてもひどく見え透いた神話だ。というのは、これらの詩編の機能が明白だからだ。公衆に、詩そのものではなく、詩の表象を供給するのだ。経済的であり、安堵させてもくれる。(118)