東京から考える/東浩紀・北田暁大

2007/12/29-1/2
二〇〇七年初頭にベストセラーとなった、二人の若手思想化が「東京」について述べた本。
二人の立場の違いとして、たとえば街の郊外化・無個性化に対し、東はヴァーチャルな空間で個性が保たれる以上、そもそも都市に個性が必要なのか、と疑問を呈しているのに対し、北田はそれでも都市の個性・土着性を保つ必要性を述べている。
五年ほど前、『都市の社会学』を読んだ頃の私であれば、北田の立場に賛同したであろうが、今ではだいぶ東の立場に傾いている。当時の私の興味は「都市景観」にあったが、今では美しい・個性的な景観の都市よりは、無個性でも居心地のいい景観の都市に住みたいと思うだろう。
そのような私自身の変化を確認できたことも含め、非常に面白く読めた本であった。

情報アーカイヴとしての渋谷・秋葉原

北田「森川嘉一郎さんが『趣都の誕生』のなかで、渋谷と秋葉原を異質な趣味によって形作られた街として対照させていますね。もちろん渋谷と秋葉原では「趣味(テイスト)」が根本的に違っていて、まったく違うタイプのひとたちが受容しているように見える。その意味ではまったく違う街です。しかし秋葉原も渋谷も、ともに九〇年代以降、機能や意味、物語に左右されない、若者にとっての情報アーカイヴとなったという意味では共通する点もあるのではないか。
(中略)意味的な差異があるわけじゃなくて、情報の「濃度」が高い。脱舞台化した情報都市という点では両者は良く似ているんですね。パルコ的な都市構築の論理は通用しない。「趣都」秋葉原の誕生と「広告都市」渋谷の「死」は同じ事態の表裏であるような気がします。」(118)

記号的空間と動物的空間

北田「ガーデンプレイスも、恵比寿の駅から離れたところに唐突に作り上げられた人為的な記号空間ですね。よくできてはいるんだけど、かなり記号的に空間が構成されていて、僕にはどうも「ディズニーランドの縮小版」に見えてしまうんです。」
東「ディズニーランドとジャスコを同じ軸で捉えているんですね。前回言ったように、そこは僕と感覚が違うところなんですよね。僕だと、ディズニーランドは共同幻想に依存した記号的空間、ジャスコ共同幻想など必要としない「動物的」空間と分けてみたい。」(128)
北田「先ほどおっしゃった「記号的」と「動物的」の区別をふまえて言うと、動物的空間が記号的装飾を意識したとき、それが過剰になってしまうということがあると思うんですね。原理は動物的にできているのに、外皮を記号的にしようとすると記号が過剰化してしまう。その典型が自由の女神像を擁するお台場であり、恵比寿もそうした事例のひとつだと思うんです。実際、かなり過剰な記号性――西欧という記号性――をまとった建造物もありますしね。」(129)

都市論≒若者論を超えて

第四章では、東は都市のダイナミズムがつねに若者やサブカルチャーによって表象されてしまうことへの違和を、下北沢を例に述べている。一方で北田はフラット化する郊外の中での見逃しがたい格差や、ヴァーチャルなエスニック・ネットワークのしたたかさを足立区や西葛西を例に述べている。そのうえで「面白い=ダイナミック=若者が集まる」という図式を解除して都市について考えていく必要性がある、としている。

「生物学的制約」にどう対峙するか

東「僕がこの連続対談で東京を素材として言いたかったことは、人間は主体である前に動物であり、そしてその動物性がいまや、都市デザインを含め、社会システムの根幹を直接に決めはじめているということです。二〇世紀の思想家たちは、主体の脱構築、社会の脱構築をえんえんとやってきた。ところがその結果、いまや脱構築不可能な、生物学的身体としての人間だけがナマでごろんと転がっている、という感じがする。そして、その事実性を前にすると、思想家たちは驚くほど言う言葉がない。」(263-264)
東「問題は、その条件を認めたうえで、「人間が類として自然に寄り添って生きていくこと」と「人間が個として自然に抵抗して生きていくこと」をどう両立させるのか、ということだと思うんです。具体的に言えば、「女性が類として出産する器官を独占していること」と「女性が個として出産を選択しないこと」をどう両立させるのか、「人間が類として少数派を生み出し、それをリスクと感覚すること」と「人間が個として多様であること」をどう両立させるのか、その知恵こそが大事なのだと思います。」(264-265)