『新・建築入門』 隈研吾

2011/4/17読了
・建築と空間の断絶――何かを構築しようとする、主体の意志。
・「すべての構築に構造がある」のではなく、すべての構築が構造を欲し、結果として構造を表現する。
・ただし、構築には主体が必要。「ピュタゴラス的な理想主義は視覚をもった主体という概念の導入によって、パルテノンというひとつの完成した実体に到達することができた」
・比例とは抽象。構築物は比例関係に抽象化されることで拡張される。ギリシャ人は列柱によってそれを追求した。
・建築は自然を表現することで、構築の本質を隠蔽する。時代が構築的であるほど、代償か贖罪かのように自然というテーマが時代の表面へと浮上する。
・ローマ以来の建築史全体のミースによる否定。「闇の迷路からの救出を目標とする。すべての建築史がミースによって否定された」
・ブルネレスキと透視図法の限界。「ゴシック的な方法論である普遍からの演繹をしりぞけ、自らの習慣から出発して、新たなる普遍(客観)に到達することを彼は目的とした。透視図法とはこの目的に最もかなった方法であるかに思えた。ただし透視図法とはあくまで方法論であり、それ自体は新たなる普遍でも、新たなる客観でもなかった。そこに透視図法の限界があった。」
ルネッサンス時代における都市の書き割り化。建築は都市空間を構成する壁、あるいは舞台装置としての役割を担うようになる一方、客観性の発見=秩序の発見という目的は見失われる。
バロック建築を生みだしたもの=(反宗教改革の)制度によって定義され、保障された普遍。逆に、制度的な裏付けのない自由な想像力は、狂気に漂着する結果となる。
新古典主義イデオロギー的には反絶対王政であるが、経済的な基盤は貴族の側にある。貴族的な文化制度では歴史と伝統が価値を持つため、新古典主義ギリシャ・ローマ建築の模倣から脱却できなかった。
・逆に貴族的なパトロネージから排除されたヴィジオネール達は、ローマ建築のから脱却できていた。しかし、そのヴィジョンが実現されるのは、貴族に代わるパトロネージが確立される二十世紀を待たねばならない。
・構築の歴史の、十九世紀におけるギリシャの再現。「郊外という場所に、自然と一体化した形で住むことを、多くの人々が追求した結果、自然はさらに決定的に破壊されていった。構築は自己否定という衣装に身を隠しながら、さらなる拡張へとつき進んでいった。」
ヘーゲルと十九世紀の建築状況の類似。ヘーゲルにおいて客観とは「弁証法の運動を通じて主観が知りえるに到ったものの総体」である。構築の外部には自然という神聖な他者が存在しているわけではなく、構築の外部にもまた構築が広がっている。その構築の総体が社会=客観となる
ヘーゲルそしてマルクスは、思想的には理想都市と一致する。そしてそれらは、外部を認めないがゆえにすべて失敗に終わる。

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)

新・建築入門―思想と歴史 (ちくま新書)