『恋愛のディスクール・断章』はどう読むべきか? −『ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)』2/2

 『恋愛のディスクール』は、バルトによる快楽主義の実践と言える。彼はこの本で、恋愛を様々な要素に分解し、科学する態度をとる。しかし、ともすれば安直な内容になりがちな方法で著されたこの本から、私たちは皮相なものを受けとることはない。

 恋する主体の根底的なアイロニーが、これらの観察にすでに含まれている。もっとも私的な情緒と想定されている恋愛が、主体によって、シソーラス、つまり一つの事典のような汎用的で非人称的なものから駆り出されたコードの抜粋の出現という観点から経験されるのだ。主体が自分の一見私的な反応が文彩の汎用の語彙集の一部にほかならないというアイロニーを即座には認識しない理由は、「想像界」という考え方の精神分析的な背景を暗に意味している。(189)

 なぜ、この本はアイロニーに陥ることはないのか。それは、この本が結論を書かず、バルトの思考の軌跡が、そのまま描かれているからである。
 しかし、その結果が、深刻な内容にも生真面目なものにもならず、軽やかで、優雅なものになっているのは、バルトの文体によるものとしか言いようがない。

 バルトはなぜ、恋愛のディスクールを肯定しようと模索するようなテクストを書いたのであろうか。このような問いに対してまず明らかにすべき点は、バルトによる恋する人物、テクストのなかで「わたし」と発する人物は、恋愛を確証としてではなくて喪失として経験するのであり、それは一連の欲求不満、不安、どっちつかずの状態、淡い期待、些細な記号のいつでも逃れ去る肯定的な意味をノイローゼのように追い求める経験である。バルトによる恋する人物は、記号音読者であり、恋愛における記号学者である(恋する者のすべてとまではいわなくても多くがそうであるように)。他者(愛される者)が想像界、つまり恋する者の自己のなかにあるフィクションを分かち合ってくれる徴となる記号を探し求めて止めないのである。しかしながら、愛される者は、愛するものの想像界にとっての「他者」であるのだから、このようにして肯定的な記号を求めることは、避けがたい失望や欲求不満や喪失に導くだけなのである。(192-193)

 この登場人物がおかれた状況といえば、できたら別の種類のフィクションの中に生きたいと願いながら、ひとつのロマネスクなフィクションに生きているということになる。このようなテクストの結果は、複雑だ。ひとつのレベルで、バルトによる恋愛のディスクールについてエクリチュールは、恋愛のディスクールの幻想的で神話的な性質をすっかり暴露している。しかしながら同時に、バルトのテクストは登場人物(恋愛のディスクール、、「愛しています」という「わたし」)を、愛と共に扱い、肯定し、理知的なものの拒絶から救い出そうとする。ここから脱神話化の批評が含む暴力を回避しながら、恋愛のディスクールの虚構で困惑させる性質を証明するテクストが生まれる。(194)

 この本における『恋愛のディスクール』の説明は、次の言葉で締めくくられる。この言葉の中の「ディスクールを語るわたし」こそ、後期バルトが目指した立場ともいえるだろう。
 そして、『恋愛のディスクール』はバルトの思想が述べられている本ではない。その思想を上演した本なのだ。
 私たちは、映画や演劇を見るようにこの本を楽しむ。そこにどのような思想を見いだすかは、読者の教養や人生経験によると言えるだろう。

 このテクストは、読者に困惑させるものの愉快でもある鏡を提供するのである。『恋愛のディスクール』の読者は、自身を「わたし」(登場人物)と同一化するのと同時に、代表的な文化的神話に対する暗黙の批判に自己同一化するが、同時にその神話のディスクールを語る者でもある「わたし」にも自己同一化するのである。その結果、最終的な客観的理論による慰めも得ることなく、わたしたちは恋愛のディスクールに対する自分自身の関係を試されているのだ。(195)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)

ロラン・バルト (シリーズ 現代思想ガイドブック)