歴史と反復/柄谷行人

2007/11/24-12/28

近代日本の言説空間

前半では近現代の歴史に見られる「反復」を、コンドラチェフの波を根拠としながら論じる。
たとえば天皇をめぐる言説空間については、大正時代と七〇年代に共通性を見出している。大正時代は「土人の酋長」論(柳田國男)、七〇年代はアフリカの王権(山口昌男)やオセアニアの王権(上野千鶴子)との同型性の指摘する議論など、天皇の政治的・経済的な歴史性が無視される言説が主流を占めていた。そして、これらの言説はその後の太平洋戦争やアジア諸国からの戦争責任の追及による国際的緊張の高まりにより、かき消されることとなる。(85-87)

ポストモダンの日本文学

後半では大江健三郎村上春樹中上健次の文学を題材として、ポストモダン時代における文学とはどのようなものかを論じる。
村上春樹については、彼の文学ではイロニーによって、あらゆる非限定性を超える超越論的な自己が確保されていることを指摘する。村上の「僕」は、たえず別の「意味」に置換されるアレゴリーである大江の「僕」と違い、無意味なことに根拠なく熱中することにより、意味や目的を持って何かに熱中する他人を見下す超越論的な自己の意識となる。(161-162)
「これは国木田独歩がもたらした「近代文学」の系列にあったものであり、その反復である。いいかえれば、現実的な「闘争」を放棄し且つそのことを内面的な勝利に変えてしまう詐術の再現である。村上春樹近代文学の「内面」や「風景」を否定したかのように見える。しかし、実は彼がもたらしたのは、新たな次元での「内面」や「風景」のなのであり、その独我論的世界が今日の若い作家たちにとっては自明のベースになったのである。」(162)
いっぽう中上健次については、秋幸三部作の父の自殺を近代日本のアポリアの消滅であるとする。そして、秋幸とともに中上も日本のポストモダニズムについて「違う」と思う。
その後、中上は「小説ではなく物語」(212)の『千年の愉楽』を書く。オリュウノオバと礼如という超越的な視点の下で「半蔵をはじめとする多彩な主人公たちは基本的に同一的であり、オリュウノオバにとっては順序さえどうでもよい。それらは「高貴にして澱んだ中本の血統」としての同一性の反復である。もはや歴史は存在しない。あらゆる出来事が形式としての同一性の中に回収されるからだ。主人公たちの死はすでに宿命によって予定されている。つまり、「終り」から見られている。『千年の愉楽』は、前近代的な世界でもなければ伝記的な世界でもない。それはポストヒストリカルな世界なのだ。おそらく『地の果て至上の時』以降に、「小説」を書くことは不可能である。」(212-213)