『ドゥルーズの哲学原理』 國分功一郎 1/3

 本の目的としては、ドゥルーズがいったいいかなる問いの系譜に自らを定位していたのか明らかにすることである。そうしなければ、彼の思想・哲学を見定めることはできない。(36)

第Ⅰ章 自由間接話法的ビジョン

 バディウの解釈では、ドゥルーズは常に具体的な事例から出発し、自由間接話法を用いている。そうであるならば、それは彼が自由間接話法を「自然に』導入し得るほど、取り上げた対象を思考していることを意味する。(21)
 ドゥルーズは、論述の対象となっている哲学者によって意図的に概念として使われていた訳ではない言葉を概念化して提示している。たとえば、ヒュームをそうとは知らずに「事情」を概念化していたと考える。(26)

第Ⅱ章 超越論的経験論

 ドゥルーズは、経験論的批判(ヒューム)が超越論的批判(カント)によって乗り越えられたとは考えず、それぞれを別の平面に位置づけ、並置する。カントによるヒュームの批判は、哲学史の決定的な一歩であるが、彼はそれにより主体への生成に向かう問いをやめてしまったのだ。(46)
 ドゥルーズは、ライプニッツの可能世界論(ルビコン川を渡らなかったシーザーのいる世界)を批判し、<潜在性-現動性>の軸を打ち立てる。ブツブツとしたバラバラの「特異性-出来事」が、大域的にひとまとまりにされる時に発生が起こる。現実は、このような潜在的なものの現動化(「分子状」のものが「モル状」になる)として説明される。そのような意味で、彼は「特異性-出来事(singularite-evenement)」を超越論的なもの(=発生素)と考える。(63-66)
 ドゥルーズによる精神分析の検討。『差異と反復』では、デカルトのコギトを再検討することでカントが超越論的自我を発見し、その超越論的主体に発生の観点から再検討を加えたのがフロイトである、という哲学的系譜が示される。カントは「自我」や「良心」を想定していたが、フロイトは「自我」や「超自我」の発生を説明しようとしたのだ。(68-70)
 快原理は経験的領野を支配する原理であり、タナトス、すなわち死の本能は、その支配を基礎づけるという意味で、超越論的な原理ということができる。ドゥルーズは、この超越論的な原理が快原理という経験的原理の要請に従って生成する、と考えた。超絵論的原理は、経験的原理から独立して存在するのではなく、それと並んで生成する。超越論的原理は経験的原理の基礎ではあるけれども、そこから切り離せない。彼に言葉では、超越論的なものの探求の特徴は「ここでやめたいと思うところでやめるわけにはいかないというところにある」。(79-80)