情報自由論/東浩紀

2007/8/18-8/27

環境管理型権力アーキテクチャ

「(キセル乗車への対策について)自動改札機の導入はこれらの問題を解決する切り札である。自動改札機が導入された改札口では、キセルを試みようとしてもその可能性がない。(中略)しかもその規制は、切符の形態が、磁気券からプリペイドカードへ、さらに個人認証付きのICカードへと変わるにつれ、ますます完成度を上げている。これがアーキテクチャによる規制である。私たちの社会は、このような局面でも、法と規制による規律訓練を放棄し、アーキテクチャによる管理へと確実に重点を移している。そしてその管理を可能にしているのは、膨大な情報を処理する機械群である。」(49)

「消費」概念の位置づけ

アーレントの理論においては、労働と消費は等しく「動物」のものである。ここには、マルクス主義の批判と消費社会の批判という二つのモチーフが重ね合わされている。マルクス主義者は労働者の労働からの解放を訴えた。そしてそれは表面的には、一九五〇年代のアメリカで達成され始めていた。しかし、そのあとに来るのは、人間性の回復ではなく、むしろ疎外の徹底化、すなわち、市場の論理に追いかけられて労働と消費(余暇)がくるくる回転するだけの空虚な社会ではないか、とアーレントは問いかけている。この批判はいまも有効性を失っていない。彼女の著作が出版されて以来、アメリカ型の「動物的」な消費社会は、まさに世界中を覆い尽くしていった。」(140-141)

情報技術の二面性

「なぜ情報技術はこのような二面性(私たちの自由を拡大し、同時に脅かす)を帯びているのか。それは実は、私たちの生がそもそも二面的だからである。私たちはつねに「人間的」「主体的」「能動的」に「市民」として生活しているわけではない。むしろ、私たちの生活の大半は、目の前に積まれたタスクを「動物的」に惰性でこなし、与えられた商品やメディアでなんとなく渇望を満たしていく、「非主体的」で「受動的」な「消費者」としての時間で満たされている。アーレントの言葉を使えば、私たちの生は、「活動」の領域と「労働」すなわち「消費」の領域とに大きく二分されている。
そして、情報技術革命がもたらした個人のエンパワーメントは、この両者の特徴をばらばらに強化し先鋭化する役割を果たしている。言い換えれば情報社会の到来は、人間をより人間的にすると同時に、ますます動物的にもする。」(149-150)

新しい「自由」

「ここでは、とりあえず、いま構想されねばならない新たな「自由」とは、ネットワークをますます緻密にしてユーザーの選択肢を増やすこと(消極的自由)でも、セキュリティとプライバシーに配慮して自己情報管理権を強化すること(積極的自由)でもなく、ネットワークから離脱し、属性情報の提供を拒否し、匿名に生きたいと願う人々の生活権をどこまで保障するのか、その寛容さに関わっているのだとだけ述べておきたい。」(174)