『パサージュ論』熟読玩味/鹿島茂

2007/6/3-6/16
難解なベンヤミンの『パサージュ論』を解説した本。著者によれば、ベンヤミンが『パサージュ論』において試みた歴史学とは「集団の夢」が出現する瞬間を捉えることである。そしてこの集団の夢とは、アルカイックなものの記憶やノスタルジーを伴うものであるという。
「人間が集団的無意識としてもっている根源的感情や太古的な不安や願望は、社会の中にあらたなテクノロジーが生み出され、人がそれに特有の表現形式を与えようと機能性と装飾性のあいだで模索するとき、その表現形式の中に、もっとも明白な形で現れる。そうした根源性は、テクノロジーの自然原因、たとえば素材とか技術的限界などの制限がおのずと存在するため、芸術表現におけるような意識的、様式的な時代の制約をかいくぐって、より直截的な出現の仕方をする。
ただ、そうはいっても、時間的な距離がまだ十分取れていないときには、従来のテクノロジーに比べて新しいという側面のみが目に入るので、その根源性というものは隠蔽されて、同時代の人間には見えない。つまり、集団として夢を見ている状態にある。
ところが、テクノロジーが古びて、新しさというヴェールが剥がれ落ちると、表現されていた根源性があらわになる。それは、人間の集団的無意識の不安や願望そのものの表現であるから、ある場合は、無気味に、またある場合は、魅惑的に感じられるのである。
したがって、一九二〇年代に、ベンヤミンがパリのパサージュを訪れたとき、彼が過去へと誘われたのは、そのパサージュがテクノロジー的に古びていたからではない。そうではなくて、逆に、テクノロジーの新しさというヴェールが落ちたために、テクノロジーに表現されていた太古の根源的感情が露出していたからなのである。」(71-72)
そして、なぜ新たなテクノロジーが太古の根源性を帯びたものになるかと言えば、「ひとことで言えば、「集団の夢」において出現するアルカイックなものは、フロイトの夢解釈の場合と同様に、上部構造(文化・芸術)ではなく、下部構造(テクノロジー)の中からもたらされる」(234)からである。
「集団の夢」の具体例として、ひだ寄せ機械とスカートのプリーツの例が挙げられている。
「こう書いたからといって、「ひだ寄せ機械」の登場が、世紀末の「ひだ」の流行を生み出したとする下部構造決定論に立つとは思わないでいただきたい。やはり、一九世紀モードの特徴であるバロック化の流れを引き継いだ「ひだ」の流行が「ひだ寄せ機械」を生んだと考えるべきところである。ただ、ひとたび、「ひだ寄せ機械」が登場したあとは、「ひだ」の流行に拍車がかかったことはあらためて指摘するまでもない。バロック化の方向で高級化がはかられているかぎり、「ひだ」を複雑にする以外に差別化の方法はないからだ。「ひだ」を全廃した、肉体の機能性を重視したシンプルなドレスこそがシックで高級だという発想が生まれるまで、つまり「目覚める」まで、このバロック化はとどまることをしらない。一人一人のデザイナーや仕立て師は、あるいはクリエイティブな野心から、あるいはたんに経済的な欲望だけで、複雑なひだのドレスを考え出し、それを最新モードとして発表するが、全体としては、つまり集団意識としては、一九世紀を通じて行われたモードのバロック化という「夢」を見続けているにすぎない。肉体の「機能」に対する「覚醒」はまだやってこない。
ただ、大人たちはだれ一人として、自分たちが集団として夢を見ていることを知らないが、母親の上着の裾につかまりながら、ドレスのスカート部分のギャザーやプリーツの中に顔を埋めた子供は、のちに成人したあと、それが一九世紀という一つの時代が見続けていた「夢」であったこと、そして、自分こそがその夢の目覚めに立ち会うために送り込まれた「木馬」であったことを認識するだろう。」(204-205)