二時間の印象派/西岡文彦

2007/6/2-6/17

印象派の父・モネは何を描こうとしたか

「なぜならば、彼が画家を志したのは、ブーダンによって「描かれた絵」を見てのことではなく、ブーダンによって「描かれつつある絵」を見てのことだからである。すでに「描かれた絵」の完成された美しさではなく、いま目の前で「描かれつつある絵」の生命感こそが、彼をして画家の道を選ばせたのである。そのタッチの生命感を捨てて、筆の後も残さぬ仕上げをほどこすことは、そもそも彼が絵画を志したところの原点となった感動と、根本から矛盾してしまう。
モネの絵画には、それがいかにして描かれたかを示すタッチは不可欠だったのである。」(18-19)

ヌーヴェル・ヴァーグ印象派

ヌーヴェル・ヴァーグは、映画版の印象派のようなものであった。
印象派がアトリエを捨て屋外で製作したように、ヌーヴェル・ヴァーグの映画はセットを出て、実際の街なかでロケされた。
印象派が知人や家族を描いて、理想化された歴史上の人物を描かなかったように、ヌーヴェル・ヴァーグも俳優を単に美しいだけの人形としてではなく、現実的な存在感をもった人間として描こうとした。
そして、印象派の即興的な筆さばきそのままに、ヌーヴェル・ヴァーグの映画では、カメラワークも脚本も現場で決められたのである。
従来の映画では失敗とみなされた、手ブレやピンぼけや隠し撮りを活用した点でも、両者は共通している。モネのタッチは、写真のブレを参照しており、ルノワールの魅力はピンぼけのような輪郭処理からかもしだされ、ドガの視点はまさに隠しカメラそのものであった。」(53-54)

印象派と日本人

印象派の作品は、まず、その題材で私たちを魅了する。
サロン絵画お得意の歴史画を捨てて、当世風俗すなわち、日本の浮世絵がいうところの「浮世」の情景を描いたのが、印象派の作品であった。
このフランス版浮世絵が描く都市のにぎわい、人々の装い、リゾートの明るさは、今なお私たちが持っている異国への憧れをかき立てる。その憧れと共に、画面の細部には日本人におなじみのタッチが躍っている。
塗り込めたような完成度で圧倒するサロン絵画の伝統とは一線を画する、文人画のような親近感があふれているのである。
作品が私たちの琴線に触れるのは当然であろう。」(151)