『抽象の力』岡崎乾二郎 1/3

 昨年ベストセラーとなったこの本。といっても、さくさく読める、というわけではない。
 内容的には、「現代の芸術運動は本来どのようなことを目指したか」「完成した作品ではなく制作や鑑賞のプロセスを芸術とすること」「芸術と文明」という三つのテーマが、作品や作家論に沿って述べられている。
 これらのテーマを述べる中で、海外の作家の作品と日本人の作家の作品の類似性を比較しつつも、それは影響関係というより、同じ芸術的課題が同時代的に、全世界的に存在した証左であるという主張が見られる。

現代の芸術運動は本来何を目指したか?

キュビズム

キュビズムは対象の見かけ(のそのものらしさ)の再現、つまり視覚への依存から絵画を離し(キュビズムが放棄したのは事物の見慣れた形=区切られた形であり、対象を特徴づけているとみなされていた固有な色彩である)、それらによらず、より直接的、具体的そしてリアルに対象を把握することを目指したのである。(12)

ダダ

何かを何かが代表することへの反対(芸術作品による代表も含め)こそが、ダダの思想である。ダダは日常生活のこまごました雑音、とりとめのない人の行動、どうでもいいような小さな生産物に注目した。それは権威や権力を代表し表現するモニュメンタルな「大芸術」ではなく、日々の暮らしを形作る「小芸術」≒工芸を重視する。そして工芸つまり道具とは、身体の各部分が意識の中枢的な支配を逃れ、行為ごとに、無意識的にそれらと共同作業を行うものなのだ。(42-43)

円と正方形、アール・コンクレ

アール・コンクレのマニフェストは「具体」というコンセプトを、現実にいっさい参照(模倣)するものを持たず、シンボルも詩情も物語性もいっさい媒介せず、直接精神に働きかけることにあると定義している。芸術は精神に直接、フィジカルに作用する機械、道具だというわけである。(86)

シュルレアリスム

古賀春江が批判しようとしたのは、シュルレアリスムをただ、自我の持つ(いまだ非現実な)欲動を、つまり自我の空想を現実に拡張しようとする運動とみなす一般的な理解である。なぜならもともと「自我(こそ)は現実の世界である」のだから。古賀にとってシュルレアリスムとはむしろ、この自我を消滅させる機構=死の欲動そのものを発動させる方法論であるべきだった。(209)

構成主義

構成主義的なデザインとは何だったのか。ひとことでいえば新しいテクノロジーの表現であり、そのテクノロジーが実現した、全く新しい空間知覚を表現することである。飛行が与える空間の新しさとは、そこに上下左右の方向感覚を確定している大地という基底面が存在しないこともある。飛行機は宙返りも急降下も反転もし、また相対する別の飛行機も同じく上下左右の空間軸を絶えず変化させる。雑誌『FRONT』は、流動的な視点の変化を演出するために、頁はときに二段に分割、切断され、一冊の雑誌が二つの別の雑誌になって異なる頁進行で展開した。(106-107)

ミニマルアート

ドナルド・ジャッドは、その三次元的オブジェクトのもっとも重要な特質を、絵画的=視覚的イリュージョンを超える現実的な直接性、明晰さ、強度にあるとした。その強度が何からもたらされるか、彼はつっこんだ分析はしなかったが、それが事物と人との機能的関係、応答に結びついていることは明らかだった。(125)