歩きながら考える/鶴見良行

2007/4/22読了
「こんど出した『マングローブの沼地で』でも書いたことですが、つまり日本近代が持っていた、というより、むしろ日本史がもっていたと言ってもいいのですが、大きなものに憧れるという姿勢をどこかでこわしたいんです。日本が一つの国であるという考え方をこわして、個人としてのバラバラな生き方を肯定していく。東南アジアでは……たとえば、フィリピンでもインドネシアでも同じですけれども、民衆の一人一人は自分がフィリピン人であるとかインドネシア人であるということをあまり意識しないで、村という社会単位のなかで生きていればいいわけです。偉大な人間を生む社会は、ある意味では苦しみの中から生まれてくる。たとえば、インドや中国のように、ネールや魯迅が出てくる社会というのは、民衆にとっては苦しみの社会、専制国家なんですね。どちらかと言えば、定着農耕の社会です。それにたいして、偉大な人間を生まない社会は、村だけの村長さんがいやだったら隣りの村にくっついちゃえばいい社会です。そこからは偉大な思想家というものは生まれなかったし、生まれなくてよかった。また、このような社会が非常に遅れているというふうに考えられたらむしろ困るんです。
(中略)ぼくは、そういうレベルのところに日本をもっていきたい。日本社会のもっている一種の一国主義みたいなものをもっとこわしたいわけです。そんなことをぼくがやっても、書いたことが本当の意味で伝わって……うまくいって日本社会にわかってもらえるのは一〇〇年後ぐらいでしょうね。それはしょうがないと思っています。」(103-104)
「ニンニクにはちょっと思い出があるんですよね。私は料理が好きだから、何人かで調査をするときはいつも料理係なんですよ。フィリピンのミンダナオでバナナの調査をしているときも、料理をつくっていた。あのころのニンニクはものすごくやせていて、皮をむくのにものすごく時間がかかった。いまはどこのニンニクもふっくらしていますよ。三〇年間のニンニクの変化を見るだけでも、東南アジアの経済、はっきりいえば野菜が換金作物になってくる過程というものがみえてくる。そういうことは本だけで勉強していてもわからないことでしょう。」(501-502)
「歩きながらいろいろな疑問がわいてくる。それがだんだん頭のなかで発酵してくるわけです。そこで結論をいそいではだめです。ナマコでもおなじです。自分でじっくりじっくりあつめて歩いて、ゆっくりかんがえてやることです。
サバのココス・アイランダーズにしても、私が疑問をもっていなかったら、歴史のなかにうもれてしまっていたとおもうんです。偶然発見したうれしさ、みんなでいっしょに経験したよろこびというのは血わき肉おどるんです。人生というか、学問というのはおもしろいもんだよ。」(512)