『西部劇論 その誕生から終焉まで』吉田広明 3/4

・西部劇が、西部にとっての「イメージ」、神話となった時、西部劇はみずからの根拠を問い直し、拡張的であり未来志向である方向性を転換し、内向きになる。そのような時期に、叙情的な作品を得意とするニコラス・レイは西部劇と出会い、『無法の王者ジェシィ・ジェイムズ』や『大砂塵』などでよそ者や落伍者を描く。それは、西部劇に対する自己批判ともなった。(212)
・五〇年代後半から六〇年代、ジョン=フォードはその映画の中で、曖昧なものを曖昧なままにしておくような煮え切らない態度をとるようになる。いわば、掟(自分の身は自分(の銃)で守る)と法(銃による解決の否定)の両方を尊ぶ姿勢。政治上の急進主義が際立つ六〇年代に、このフォードの姿勢に市民としての良識を見ることもできるだろう。(221,225)
・五〇年代後半の「ラナウン・サイクル」に見られるように、この時期、主人公以上に複雑な造形を施された、魅力的な悪役が登場してくる。これは、悪役のステータス上昇というより、正義の側のそれの低下のせいであり、その傾向は、以後の歴史修正主義的西部劇で加速する。心理的深みは、次第に正義から悪の側に移行するのだ。(252-253)
・透明性と不透明性の関係で言えば、西部劇は五〇年代のマンやレイにおいて不透明性のほうに大きく傾き、五〇年代後半~六〇年代のフォードやベティカーで拮抗する。この揺り戻しはさらに進み、遊戯的西部劇は『荒野の七人』などで典型的に実現する。その傾向は、物語の外形だけがアメリカからイタリアに移された、スパゲッティ・ウエスタンに引き継がれることになる。(254)
・『俺たちに明日はない』等を撮った、アーサー・ペンの作品の主人公たちは、まだ自分の世界を持たない、未成熟な者たちである。しかし、彼らに対峙する社会の方も、匿名的な破壊衝動を持っており、主人公たち以上に狂っている。それは、主人公が成熟した大人たちである、同時代のペキンパーの作品とは対極的である。(295)
・スタジオ・システムが崩れ、古典的な語りに変る様々な実験、模索がなされた六〇年代に、一度ジャンル映画は衰退する。だが、それは七〇年代に復活し、西部劇でいればアルトマンにおける『ロング・グッドバイ』となるが、そこにはジャンルに対する愛惜と批判という、相反する感情があった。だが、そのアイロニーは後に失われ、ギャング映画『ゴッドファーザー』や怪獣パニック映画『ジョーズ』を生むことになる。(301-302)
・1972年に公開された『ワイルド・アパッチ』では、先住民を善、白人を悪として描いていた歴史修正主義的西部劇への回答として、先住民を白人同様の残虐性を持つ、単なる他者として描く。そこでは、歴史修正主義的西部劇が持っていたある種の偽善性が暴かれ、真の意味での歴史に対する反省的視点が見出される。(333-334)