『小鳥たちのために』 ジョン=ケージ 1/3

今年の春から夏にかけて読んだジョン=ケージの対談集。
統一だてられた主張が声高に語られるわけではないが、ケージの言葉ひとつひとつから、なんとなく彼の思想の全体が分かって来る、そのような不思議な本だった。
以下、考えたことをつらつらと。
偶然、ユーティリティ、開かれた作品、論理の否定、環境そして自由。彼の考え方は、後期のロラン=バルトを連想させられるところがある。その意味でも、ラディカルに感じられるケージの考え方も、それなりに二〇世紀後半の空気を孕んでいたということだろうか。
この対談から半世紀下経過した現在、ケージの考える社会は、まったく達成されていない。共産主義と同様、頭の中で考えた理想社会は魅力的なものだろうが、それは現実を反映しない絵に描いた餅に過ぎない。
そんな社会の実現を、結局はケージも期待していなかったとするならば、話はそれまで。ただし、考え方としては非常に惹かれるところもあるので、それが現代アーティストや一部のインテリ飲みにしか共有されていないとすれば、残念なことだと思う。
大衆向けの芸術では、性格上ケージのような主張が語れないのならば、大衆を高度な思想や芸術の方に近づける、そのような教育の在りかたがあってもよいのかもしれない。

・沈黙について、意図されていない音の集まりとして話してきましたね。音と沈黙を取りかえるのは、偶然に頼ることだったんです。(18)
・反復とも変化とも関係を結ばない要素です。これら二つの概念の戦いに加わらず、関係したり関係し直したりすることに反逆するもの……その要素とは偶然のことです。(21)
・(実行可能なアナーキーについて)どんなことでもできる社会に到達することが目的であれば、組織が関与する部分は有用なもの(ユーティリティ)だけに集約されるべきです。まず水、空気、食料……。ところでそれは、現在のテクノロジーをもってすれば、今すぐにでも実現できることですよ。(31)
・(記譜法が曖昧であるという質問に対し)私は人格を開くことを務めと思ってますから、人が様々に解釈できるように、作品もまた開きたいと思うんです。(38)
・(調性の放棄について)私は音楽の構造の真只中に、あらゆるありそうな騒音を受け入れる必要に迫られていると感じていたんです。調性こそ喪失だった。私の目には、調性は浪費に、可能性を閉じることに見えました。(54)
・論理にとっては不幸なことですが、<論理>という項目のもとに私達が構築しているすべてのことは、出来事や実際に起きることに比べて非常に単純化されたことを表しているので、むしろ私達はそれから身を守ることを学ばなければならない。それが現在の芸術の役目なんです。瞬時、私達が流れ動いてゆく出来事を論理的に矮小化しそうになるのを防ぎ、世界の姿である過程(プロセス)へと私達を近づけることが、その役目なんです。(64)