『ドゥルーズの哲学原理』 國分功一郎 2/3

第Ⅲ章 思考と主体性

 ドゥルーズは、『失われた時を求めて』のマドレーヌのエピソードに言及し、思考に向かう積極的意思を想定することを批判する。人がものを考えることがあるとすれば、それは、仕方なく、やむを得ず、強いられてのことでしかありえない。思考を引き起こすものは、「受動的総合という至福」を邪魔する限りにおいて「不法侵入」であり、「暴力」であり、「敵」である、とすら述べる。(92)
 思考と主体性の関係について。知覚と行動の隔たりを埋めるのが主体性だが、「自動的再認」においては、それは「決まりきった延長」であり、知覚から移行するべき行動はあらかじめ決まっている。しかし、「注意深い再訪」の場合(とくにそれが「失敗」した場合)、それは「我々を個別的に知覚へと連れ戻し」、何か潜在的なものを現動化させることがある。例えば工場を前にしたとき、自動的再認が働けば、それを労働の場と認識するが、注意深い再訪が働いた場合は、「工場は監獄である」という知覚が生み出されるかもしれず、それが新しい主体性を発動させるのだ。(111-112)

第Ⅳ章 構造から機械へ

 ガタリとの出会い。ガタリは「機械」「離脱」の発想により、ラカンの「原抑圧」はそれは度強固なものではないと直感するが、まだ十分に理論化できない状況にあった。しかし、ガタリ構造主義的なものを乗り越えた先として、複数の流れを一つの欠如(逆説的要素)によってまとめ上げるのではなく、複数の流れそのものとして捉える視点を予感していた。(135-136)
 「空白のマス目」について。これはレヴィ=ストローの「浮遊するシニフィアン」とも関連する。シニフィアンシニフィエの二つのセリーが与えられたとき、常にシニフィアンは過剰であり、シニフィエには欠如がある。社会や規則に当てはめれば、法(司法、宗教、政治、愛と労働、親族と結婚…)はひとつの体系であり、一度に与えられる。しかし、社会による「自然の制服」は漸進的である。従って、法は、それが何にどう適用されるか事前に明らかでないまま、その全体系が適用される。そこで生じるシニフィアン(法、規則)とシニフィエ(その適用対象)の不均衡こそが、社会変革の動因である。これは、技術主義(技術が獲得したもののリズムに合わせて社会が変化する)を批判するものとなる。(148-150)※なお、この本の著者は、上記の議論を「或る種の理論的後退」と指摘
 D&Gの分裂分析は、機械のイメージをかたり、それが日付や歴史に関わることを強調し、スタティックな構造主義をのりこえる。彼らの課題は、欲望する主体がいかして自らの「抑制」を欲望するかを明らかにすることになる。つまりそれは、人はなぜ自分たちの隷属を求めるのか、という問題である。「驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。また、ある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人びとが必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである」(167-168)