『ドゥルーズ 流動の哲学』宇野邦一 3/4

アンチ・オイディプス

精神分析は、子供たちの玩具や遊びさえも両親の代理として捉えるが、玩具も遊びも、こどもの無意識とともに「機械」を形成することによって、家族の外の様々な社会的、歴史的要素を表現しうる。幼児の性欲それ自体が、両親以外のさまざまな「差異」を内包しているし、両親さえも幼児にとっては、まさに家庭の外の世界と歴史を知覚させる通路なのだ。ところが精神分析は、無意識という多様体を、家族の三角形という平板な表象に閉じ込めてしまう。(184)
・(専制君主機械について)専制君主は外部からやってきて、しばしば荒野や砂漠での試練を経て、やがてひとつの世界を徹底的に内部として整除し、閉鎖するような存在であり、その意味でも「倒錯的」な存在である。
 ドゥルーズ=ガタリは、この倒錯をパラノイアと呼び、資本主義の根底にある分裂症(スキゾフレニア)と対比している。そして、専制君主パラノイアは決して、資本主義の到来ともに消え去るのではなく、資本主義の運動を決定するもうひとつの極として生きのびるのである。資本主義に内在するパラノイアは、確かにもう同じ国家装置ではないだろう。しかし「あまりに恐ろしく、あまりにも唐突、あまりにも説得的、あまりにも異様」とニーチェが形容したような国家の特徴は、繰り返し亡霊にように再生し、亡霊にようであるからこそ、ますます効果的に現実の世界で作用するかもしれないのだ。(201)
・あらゆるところに欲望の連結と切断を見ること、家族のイメージにリビドーを閉じ込めないこと。この発想は、性欲と性倒錯を、社会を調和的に構成するための肯定的要素とみなしたシャルル・フーリエの発想の延長線上にある。それはまた「空想的社会主義者」と呼ばれるフーリエの思想を決して「空想」とみなすのではなく、経済の根底にあって経済を規定する多型的な要素として欲望を再発見しようとしている。
 ……欲望こそが、経済よりも根底的である。しかし、欲望は確かにひとつの経路として、経済という次元を構成する。新しい『資本論』を書くことをひとつの目標とした『アンチ・オイディプス』は、まさにこのことを本質的に考え直そうとしたのだ。(209)
・欲望を肯定するままでいたら、でたらめに乱れた社会になってしまうという、一見道徳的な発想は、欲望をあらかじめ通俗的な既知のイメージに閉じ込めている。家父長、官僚、教育者、経営者、政治家、<実力者>たちの、権力と一体になった欲望とその表象が、たえず古めかしい道徳を呼び寄せ、欲望に貧しい、みじめな衣を着せてしまう。彼ら自身の私的場面での欲望が、まさにそのようなぼろ切れをまとっているのだ。支配欲と一体のそのような道徳や敬虔さ、「国民としての義務」等々、その「神聖同盟」は、この本では徹底して批判され、哄笑されている。それゆえにこの本は、熱狂的に迎えられると同時に、逆に囂々たる<批判>の的にもなった。たとえ学問的な批判というかたちをとっていても、それらの批判の多くは、まったく古色蒼然とした道徳的な性格をもっていた。(213)