『ドゥルーズ 流動の哲学』宇野邦一 4/4

千のプラトー

・(『千のプラトー』の印象について)『アンチ・オイディプス』では、ひとつの巨大な卵のように、力強く波打って循環していた液状の熱い思考が、大気や大気圏外にさえ発散して、いたるところにオーロラや星雲を描き出したような感じなのだ。(220)
ドゥルーズ=ガタリは、少なくとも二つの秩序の可能性があり、もうひとつの秩序(リゾーム)に固有の特性があるということを、文学・芸術や社会学歴史学をモデルにし、さらに植物や脳や遺伝についての学まで引用して縦横無尽に論じている。もちろん、そんなふうにさまざまなモデルがすでに存在するのだから、リゾームは決して未知の秩序とはいえない。彼らが試みたのは、さまざまな領域で共通に現れていた<異質な秩序>を横断しながら、それをひとつの連続体として配列し、リゾームという概念によって結び合わせ、その連続体をしっかり目に見えるものにすることである。この概念は、科学ではやがてカオス理論、複雑系のような形で問題化される。(226)
ドゥルーズ=ガタリは、リゾームの危険と恐怖を指摘することも決して忘れない。ひとつの領域や秩序から最も遠くに逸脱したもの(脱領土化したもの)が、変質した新しい秩序を最もよく支配する(再領土化する)ということがありうるからだ。現代の権力は、ますますリゾームに似たものになっている。(229)・(言語について)いまでも文法学者は、懸命にそこに定数を打ち立て、合理的な説明を試みようとする。しかし変化しない不動のものの規則ではなく、変化するものの変化の規則という観点から言語を見る見方があっていいはずなのだ。変化は決して例外ではなく、変化の連続からは、まったく別の規則がとりだされるだろう(そして「連続変化」の方法は『千のプラトー』の全体に及んでいる)。(237)
・いったいなぜ「戦争機械」が、肯定的な概念でありうるのか。戦争機械と戦士に特有の狂気、奇妙さ、裏切り、秘密性、暴力、情念といったものがあることを、ドゥルーズ=ガタリは繰り返し指摘し、いつもそこに固有の危険と、国家に対抗する可能性を見出すのだ。「国家装置」については、一定の経済的発展の末に、一定水準の生産力やストックを前提として出現するという見方を、決してドゥルーズ=ガタリはとらない。むしろストックを生み出すような経済の形態のほうこそが国家を前提とし、国家によって生まれるという。(247)

シネマ1・2

ベルクソンは、映画的知覚をひとつの「錯覚」として、瞬間的な点の継起として偽の運動を構成する悪しき知覚の典型と考えたが、ドゥルーズはむしろ映画こそが、中心も指向性ももたない知覚を与えるのに絶好の装置だと考える。映画の中でこそ、運動は運動体と分かたれないものになり、中心をもたない知覚がじかにイメージと出会うことができる。映画は「非中枢的」な知覚をあたえるのである。(264)
・問題は、映画、芸術、哲学を信じることではなく、それらを通じて世界を信じることなのだ。しかし、それらに代わって悪しき映像、美学、観念が次々世界を覆い尽くし、世界の知覚が妨げられる。世界が世界を裏切っているかのようだ。しかし世界がとりわけ悪しき映画のようになっているとすれば、映画こそがこの事態に介入しなければならないし、映画は実際にそのような役割を担ってもきたのだ。(279)